伝説の「1・4事変」の裏で何が起こっていたのか…小川直也が語る《破壊王・橋本真也》との数奇な運命
そしてZERO-ONEというなんのバックも持たない後発の独立団体が、老舗の新日本や全日本プロレス、日本テレビのバックアップを受けたプロレスリング・ノアなどの向こうを張って、00年代前半のプロレス界の台風の目になれたのは、"盟友"小川直也という切り札的な存在がいたからでもある。
小川にとって橋本がいなければ、そして橋本にとって小川がいなければ、ともにまったく違うプロレス人生を送っていたことだろう。小川直也と橋本真也、それはお互いにとって運命的な存在であったのだ。
そんな両者の不思議な縁の始まりは、小川のプロレス転向時にさかのぼる。小川は87年に西ドイツ(当時)で行われた世界柔道選手権大会の無差別級で優勝し、史上最年少19歳7カ月で世界チャンピオンになる。
これを皮切りに、世界選手権では合計4度優勝。柔道全日本選手権では5連覇を含む7度優勝。さらに92年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得。97年2月にJRA(日本中央競馬会)を退職すると、その輝かしい実績を引っ提げ、同年3月7日にプロ転向(プロレス参戦)を宣言した。
デビュー戦で闘ってくれたことが"最大の恩"
そして、プロ転向宣言からわずか1カ月後の4月12日、東京ドームで行われた新日本の「’97BATTLE FORMATION」に参戦。橋本とプロレスvs柔道の「異種格闘技戦」として対戦し、STO(スペース・トルネード・オガワ=変形大外刈り)からの裸絞めで勝利した。これが小川にとって事実上のプロレスデビュー戦となったが、これは当初から予定されていた試合ではなかった。
「もともとは橋本さんとデビュー戦をやるっていう話ではなかったんですよ。当初予定されていたあの日の東京ドームの橋本さんの相手は(ケン・)シャムロックで、それがキャンセルになったんで、そこに自分が滑り込んだっていうね」
こう小川が語るとおり、当初、4・12東京ドーム大会の目玉は、元UFC王者のケン・シャムロックが新日本に初参戦し、現IWGPヘビー級王者の橋本(当時)と対戦するスペシャルマッチだった。
しかし、橋本vsシャムロック戦が正式発表された直後、アメリカ現地時間2月24日にニューヨーク州ニューヨークのマンハッタンセンターで行われたWWE「マンデーナイト・ロウ」の会場にシャムロックが登場。WWEとの3年契約が発表されたのだ。
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