二人三脚で出世街道を歩んだ「豊臣兄弟」…秀長の"類まれな資質"を開花させた《地味な仕事》とは

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さらに、「資質」とはその人が生まれもった性質や能力を指します。資質はその人が育つ環境にも大きな影響を受けます。ですから「資質」は「環境」も含めたより大きな枠組みで考えてもよいでしょう。

農業と武士を「兼業しない」近代的な武士だった

本稿の主人公・豊臣秀長は、豊臣秀吉の実弟として戦国時代後期に生まれ、秀吉の天下統一とともにこの世を去りました。秀長の生涯を振り返ると、やはり「時流」「選択」「資質」の3つの要因が、その来し方行く末に大きな影響を及ぼしたことがわかります。ここでは、まずその「時流」について考えてみます。

秀長の生涯における「時流」を考える際のポイントは専業武士の登場です。中世型の武士集団は農業を兼業していました。ところが戦国時代も中頃になると、兵農を分離した専業武士が近代的武士集団として登場します。実は従来にはなかった兵農分離の専業武士集団を最初に作り上げたのがあの織田信長にほかなりません。

そして、信長が専業武士集団という「時流」を作り上げる背景には、さらに別の、より大きな「時流」が存在しました。それは鉄砲の伝来と普及、さらに貨幣経済の進展です。

中世型の合戦では武士が名乗りを上げて斬り合いをするのが一般的な戦い方でした。槍刀や弓の腕を上げるには長時間の訓練が必要です。中世型の武士は時間をかけて腕を磨き、肉弾で合戦にあたりました。

これに対して信長が採用した近代型の合戦では、鉄砲を持った足軽や雑兵が最前線で戦います。鉄砲の特徴は素人でも容易に扱える点にありました。

また、弓ほど高度な技術を必要とせず狙った的に当てられます。中世型の武士からすると鉄砲隊は合戦の素人集団にしか過ぎません。しかし、天正3(1575)年の長篠の戦いにおいて、当時最強の名をほしいままにした武田の騎馬軍団が、信長の鉄砲隊の前にあえなく壊滅します。

会社にたとえると、従来、最前線で戦うのは正社員でした。ところが信長が採用した方式では、正社員が担当していた任務をアルバイトや派遣社員に任せたわけです。さらに信長は鉄砲隊の足軽や雑兵を「銭」で雇いました。土地を基礎にした主従関係は存在しません。

また、兵士を養う米も「銭」で購入します。彼らが所持する鉄砲も「銭」があれば調達できます。つまり、貨幣経済という「時流」によって信長は兵農分離を実現できたわけです。

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