二人三脚で出世街道を歩んだ「豊臣兄弟」…秀長の"類まれな資質"を開花させた《地味な仕事》とは
秀長が「鍬を捨てて刀に持ち替える」と決めた時、彼は当時の「時流」である兵農分離について知る由もなかったでしょう。この兵農分離には、信長のような武士の頭領にとって大きなメリットがありました。
中世型の武士集団は農業兼業が一般的です。そのため田植えや稲刈りの農繁期は、農業に忙しく戦に出ている暇はありません。結果、戦をするのは農閑期になります。これに対して兵農分離の信長軍は、農繁期であっても敵方に斬り込めました。
これは農業兼業が当たり前の武士集団にとっては脅威です。敵が来れば農繁期でも戦わなければなりません。しかしそれだと農業収入が途絶えるからです。
つまり信長が急速に勢力を拡大し、やがて上洛を果たせた大きな要因とは、農業兼業から専業の武士集団へと変移するその「時代の波」に巧妙に乗ったことにあります。そして、秀長は偶然にも、その「時流」の最先端をいく信長の陪臣(家臣のそのまた家臣)になることを「選択」しました。
兄弟の二人三脚で出世街道を突き進む
秀長が秀吉の家来になると2人は二人三脚で出世街道を突き進みます。彼らの前に輝かしい道が開けたのは、どうやら2人の「資質」が兄弟とは思えないほど対称的だったことに起因しているようです。
秀吉は豪放磊落で、これと決めれば目標に向かってがむしゃらに進みます。これに対して秀長は温厚で思慮深く、何事も控え目な性格でした。しかも「超」がつくほどの兄思いで、兄の手柄のためなら自分を犠牲にすることもいといません。
2人の「資質」の違いは織田家における役割の違いにも表れました。秀吉は信長のために何か手柄が立てられないかと、いつも席を温める間もなくあくせくと立ち働いています。対する秀長は兄の留守を預かり、秀吉が存分に働けるよう、後顧の憂いをなくすように振る舞いました。
たとえば秀長が家来になった当時、寄せ集めで乱暴者の多い足軽連中をまとめる仕事を秀吉は秀長に任せています。その間に秀吉は手柄を立てるネタを探そうという魂胆です。
まとめ役は秀長の「資質」に合っていました。争い事が起これば人の話をよく聞いて、両者の顔が立つ落とし所を見つけるのが得意だったからです。この「資質」は村長として村人をまとめた父・弥右衛門譲りだったのかもしれません。
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