《朝ドラ》「ぼくはもう小松記者を好きになっていたのだ」やなせたかしが恋した新聞記者、「ハチキンだけど気遣い」の素顔
思えば、亡きやなせの父が講談社の編集者で、またやなせ自身も、学生時代に学校新聞の編集を経験していた。そして、後年にはサンリオで『詩とメルヘン』の編集長も務めることになる。何かと雑誌作りに縁のある人生だといえよう。
『月刊高知』のスタッフは4人で、取材から広告営業まですべてをやった。やなせは同僚の品原淳次郎と同じく、主に記事を書く仕事だったが、画力をいかしてカットやイラストも描いたという。
書いた原稿を活字に組みながら、赤字を入れていくのは、新聞社出身の青山編集長だ。そして、主に広告営業を担当したのが、のちにやなせの妻となる小松暢記者である。
ハンドバッグを投げつけた小松記者の剛腕
広告の仕事で大変なのが集金で、広告代金をなかなか支払ってくれないケースもあったらしい。やなせや品原も広告の集金を行ったというから、その難しさは身に染みて実感したようだ。
その点、小松記者の未払い金への回収方法は、型破りだった。手に持っていたハンドバッグを、未払いの商店主に向かって投げつけると、こう迫ったという。
「はっきりしてよ。払うの払わないの」
その結果、広告料金は見事に支払われたという。何とも頼りになる「ハチキン」ぶりだ。
また、ドラマ「あんぱん」では、暢が速記を習得して記者職を得るプロセスが描かれたが、実際に小松記者は中根式速記(中根正親が創案した速記術)の達人だった。やなせは小松記者のことを「テープレコーダーのまだない時代には貴重な戦力だった」と振り返っている。
やなせと小松記者の距離が縮まったのは、『月刊高知』の編集スタッフで東京へと取材旅行に出かけたときのことである。現地に到着するまでが大変だったらしい。なにしろ、飛行機はまだなく、汽車は大混雑だったという。
やなせがのちに「あのメチャクチャな大混雑の中で、どうやって食事したのか、トイレにいったのか、今はもう思いだすことができない」というくらいハードな道のりだったが、過酷な軍隊生活に比べたら、何でもなかったようだ。
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