原田泳幸・日本マクドナルドホールディングスCEO--爆走するエネルギー、米国へのあこがれと反発
合理性と義理人情 ジョブズにあらがう
次の転職先は、石油開発に関するITサービス大手、シュルンベルジェである。立川にあるマンションの一室で米国人のボスと二人、日本法人立ち上げに携わった。バランスシートの作り方から始めて、経営者としての手腕はこのとき磨かれた。
当時、シュルンベルジェは半導体の生みの親=フェアチャイルドなどを傘下に持ち、丸紅や東京エレクトロンを代理店として、半導体関連製品を日本に売っていた。原田は代理店契約を打ち切り、直販部隊を結成することを本社に提案した。
問題は、代理店が抱える膨大な在庫をどう評価するか。本社はドライに時価評価を指示してきた。それでは代理店が大損を被る。原田は不良部品も含め簿価で買い取ることを強く主張し、本社を説き伏せた。
そこにいたのは米国的な極を持ちつつ、日本的な極も備える、バランスの取れた原田である。
4社目の就職先、アップルコンピュータジャパン(当時)でも、二つの極は健在だった。42歳で入社し、49歳で社長に上り詰めた原田が取り組んだのは、人と人との関係作りだ。「96年にアップル本社に行くことになったとき、業界の皆さんがおっしゃった。原田さんと仕事した記憶はあまりないな、個人的な付き合いの思い出話はいっぱいあるけど、と」。
アップル日本法人社長としての実績は、シュルンベルジェ同様、流通改革=直販化の推進である。年4回新製品を発売するのに、在庫回転率は年3回止まり。つまり、アップルは旧品を販売店に抱かせたまま新製品を発売し、旧品の値崩れを補填するために販売店にリベートを出して、自分(アップル)は社員をリストラするという悪循環に陥っていたのだ。
流通改革は、40社強の1次卸店を4社に減らし、3000店以上あった販売店を100店に削るドラスティックなもの。スティーブ・ジョブズが暫定CEOとしてアップルに復帰し、98年、「iMac」を発売するタイミングに合わせ実行した。
ところが、だ。当時、マーケティング責任者だった福田尚久(現・日本通信専務)は「原田さんは改革に反対だった」と証言する。電話会議でジョブズが流通改革を迫ったが、原田は会議を欠席したという。
原田の内なるもう一つの極。卸や販売店と濃厚な人間関係を築いた原田にすれば、彼らに大きな苦痛を強いる改革に複雑な思いがあったことは想像にかたくない。だが、ジョブズの強い意向を確認すると、原田は反転した。持ち前のエネルギーを販売店の説得に注ぎ込んだのである。
1次卸店、加賀電子会長の塚本勲が回想する。「必要な改革なんです、と説得に説得を重ねる。理を尽くし時間をかける。義理人情っていうのかな。歴代のアップルの社長にそういう人は一人もいなかった」。
なぜ? 外食への転身 ジョブズへの敗北感
そして04年、原田は日本マクドナルド社長に就任する。「マックからマックへ」。マスコミは華麗な転身と騒いだが、しかし、外野席としては疑問が湧く。一貫してIT畑を歩んできた原田がなぜ、外食なのか。
しかも、アップルはこの後、アイポッド、アイフォーンという大ヒットを連発する。原田にはその商品ラインが見えていたはずだ。流通改革の収穫期を迎えようというそのときに、なぜ、アップルから去ったのか。
比喩的にいえば、答えはジョブズに“負けた”から、かもしれない。