49歳で出版した本がベストセラーに!《アメリカで一番有名な料理家》に学ぶ「自分らしく生きる第2の人生」
これまでの努力が報われた……かに見えました。しかし、2カ月後、ホートン・ミフリン社の編集長から手紙が届き、すべてはひっくり返されます。
この本を出版するには膨大な制作費がかかるために高価格の本にしなければならないこと、主婦やお抱えの運転手向けの短くてシンプルな本にはまったくなっていないこと……。手紙はこう締めくくられていました。
「この本が他社から無事出版されることを心からお祈りします」
絶望的とは、まさにこのことでしょう。「本を出す」という目標に突き進んできたジュリアにとっては、あまりに残酷な結論でした。自分のすべてを否定されたかのようにも思えたでしょう。
今回ばかりは、さすがのジュリアも諦めるほかありません。夫のポールと双子兄弟のチャーリー・チャイルドからは、こんな慰めの手紙をもらったそうです。
「出版がどうなろうと、ジュリアはテレビ向きだと思う。まあ、これはぼく1人の意見だけど」
テレビを持っていないばかりか、テレビ番組も見たことがないジュリアは、この手紙を読んで一笑に付しました。
49歳でついに大作が出版、一躍ベストセラーに
時が過ぎて1963年2月11日、創設されたばかりのボストンの公共テレビ局WGBHにて、新番組が開始されました。番組名は『ザ・フレンチ・シェフ』。30分でフランス料理の概要を紹介するというものです。
司会を務めるのは……なんとジュリア・チャイルドです。
前年6月に試験的な放送が行われて、第1回でオムレツを取り上げると熱狂的な反響を呼び、当初3回の予定だった番組は27回の放送へと拡大。新シリーズとして始まることになりました。番組はたちまち人気を博し、彼女はアメリカで最も有名なシェフとして知られるようになります。
出版社から無情な宣告をされてから数年で、彼女の身にいったい何が起きたのでしょうか?
実は、ホートン・ミフリン社からボツになってまもなくして、原稿に興味を持つ出版社が現れました。一流出版社として知られるクノップス社です。ホートン・ミフリン社を紹介してくれたエイヴィスが、またも動いてくれたのでした。
原稿を検討したクノップス社から返事が来たのは、1960年5月下旬のこと。ホートン・ミフリン社から手痛い拒絶の返事を受け取ってから、1年も経っていません。手紙にはこう書かれていました。
「見事な、このフランス料理の本の内容を吟味し、レシピを参考に料理を作り、評を下すなどの作業に、私たちは数カ月を投じました。そして、これがクノップス社の出版目録に自信を持って加えることのできる、比類なき作品であるという結論に達しました」
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