「バラエティー豊かと言えないバラエティー番組」は変わるか? "金光氏退任"よりも注目したいフジテレビ《覚悟の発表》

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この言葉は、フジサンケイグループの創業一族の2代目だった鹿内春雄氏が改革を始めた翌年の1981年に、日枝久氏と同期で中枢を担った三ツ井康氏が考案したと言われる。それまでのキャッチフレーズだった「母と子のフジテレビ」に代わり、生き生きした番組作りの指針となる新鮮な言葉だった。

のちに三ツ井氏は急逝した春雄氏を継いだ鹿内宏明氏に疎まれ、グループの出版会社である扶桑社に出された。人望も厚かった三ツ井氏の左遷に奮起した日枝氏が、宏明氏にクーデターを起こしたともいえる。

三ツ井氏はクーデター後に扶桑社の社長となり、その後日枝氏に呼び戻されフジテレビの副社長に就いた。共同テレビの社長も務めた後、2021年に亡くなっている。

つまり「楽しくなければテレビじゃない」は鹿内春雄氏の改革の精神を表し、日枝氏がクーデターを起こすきっかけにもなったキーワードだ。フジテレビをトップの座に押し上げる原動力になった、大事な大事な言葉でもある。

かつてフジテレビは“憧れの存在”だった

その大事な言葉が今や人権侵害の企業風土を生んでしまったから脱却しようというのだ。当時を知る人は悲しいかもしれないが、フジテレビ再生のためには欠かせないプロセスだと思う。2014年以降、トップの座から転がり落ち、どんどん売り上げが下がるのを見て、私は「この言葉と決別すべきだ」と何度か書いてきた。

「楽しくなければテレビじゃない」は1980年代から2000年代までのフジテレビの躍進を象徴する言葉だが、それだけではない。テレビ界全体を引っ張ってきた言葉だ。ということは、フジテレビだけでなく、すべてのテレビ局が「楽しくなければ」から脱却すべきタイミングなのではないだろうか。

1980年代以降のフジテレビは何をやっても成功してきた。バラエティーはもちろん、ドラマも、スポーツも、ワイドショーも、そして報道さえも「楽しくなければ」の精神で新しい番組作りに挑み、ことごとく成功した。どのジャンルも「楽しくなければ」の色に塗りかえていった。

それに対して他局は、対抗するというより追随した。フジテレビのいいところを取り入れ、マネをして、時には意趣返しをした。マネするにせよ立ち向かうにせよ、どの局の誰もがフジテレビを意識した。そうしてテレビ全体が「楽しくなければ」の色に染まっていった。

2000年代までは、見る側にとっても楽しめたと思う。フジテレビに引っ張られてテレビ全体が面白くなっていった。各局なりの「楽しくなければ」を打ち出していた。

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