スティーヴ・ジョブズがスタンフォード大学で卒業生に向けて贈ったスピーチでもこんなフレーズが出てきます。
こういう話を聞いて、「なるほど」「確かに」「そうだったのか」と感じ、私たちは自分の心や直感に従って生きてみたいと思うわけですよね。
しかし、「自分の内面と向き合え」「自分の心の声を聞け」という助言を素直に受け取ることには危うさがあります。
心理学者のスヴェン・ブリンクマンが指摘するように、内面を見つめたところで答えが出ないことが世の中にはたくさんあるし、内面を見て答えを探すべきでないこともたくさんあるからです。
そもそも、「自分の心の声に従え」というアプローチには隠れた前提があります。すなわち、内なる声は一つであり、純粋かつ正しく、その声こそが自分を然るべき一つの進路へと導いてくれるはずだという前提です。
さらに言えば、何かを調べたり学んだり他者の視点を取り入れたりしなくても、自分に聞きさえすれば、必然的に「これだ」と言えるような正解が見つかるはずである、という前提もあります。
ここでは、他者の想像力や周囲の声、あるいはそれを学ぼうとする努力は、最善の道に至る方法をわからなくさせる、取るに足らない「ノイズ」として退けられています。
それに、自分からたった一つの声しか聞くつもりがありません。というより、自分の心の声は1種類だと想定されているのです。しかし、これはあまりに安易ではないでしょうか。
チェーホフから考える「自分の心に従う」ことの危うさ
さらに言えば、「心の声に従う」と、しばしば華々しく目立っている仕事に注意が集中するという点にも問題があります。私たちは、どうにも指先に目を奪われやすい生き物のようですね。
例えば、ミュージシャンやスポーツ選手、YouTuber などに憧れる10 代は多いですが、もちろんみんながそうなれるわけでもないし、なったとしても、事前に想像していた仕事内容との乖離(かいり)に直面する可能性が高いでしょう。
映画「ドライブ・マイ・カー」にも出てきた、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の登場人物である「ワーニャ」は、心の声に従って幾星霜(いくせいそう)という感じの人物です。
しかし、彼は心の声に従って生きたことによって失われた可能性を思って苦しくなり、ありえた未来への想像と後悔に襲われ続けています。
自分の可能性を断念すること、断念せざるをえなかったことのしんどさが、叫びとして描かれています。ワーニャの言葉を味わえる人なら、心の声に従えば万事解決というものでないことはよくわかるはずです。
屋久ユウキさんの小説『弱キャラ友崎くん』には、「人間が言う『本当にやりたいこと』なんて、いまの自分がたまたま、一時的に、それが一番いい状態だと勘違いしている幻想でしかない」というセリフがあります。
ワーニャはまさにこの意味での「本当にやりたいこと」に従って生きた結果、「こんなはずじゃなかった」「もうたくさんだ」と後悔に苛まれているのです。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら