「触れてはいけない存在」昭和天皇崩御が露わにした日本社会の構造
日経の社会部にも当然ながら宮内庁担当がいます。通常はそれほど忙しくはないのですが、朝日新聞が天皇の病気をスクープしてから大騒ぎになりまして、手術を機に臨戦態勢に入りました。私は当面、交代で宮内庁の張り番となりました。張り番と言っても、実際には特オチを避けるために記者クラブで待機しているだけ。万一何かあっても、宮内庁に待機していればすぐにわかる。そのときにいないと自社だけが出遅れてしまう。だから最低1人は宮内庁にいる必要があったわけです。
宮内記者会の記者証をもたされ、宮内庁に行くときには坂下門から車で入りました。門には守衛がいて記者証を見せるわけですが、ひとたび入ると世界が変わりました。自動販売機一つ置いてありません。俗界から禁域に入る感じでしたね。
最終版の締切が、当時は午前0時50分でした。しかし、1時過ぎくらいまではなんとか突っ込めるから、1時半くらいまではいました。そういうわけで、宅送りの車で帰宅するとどんなに早くても2時過ぎじゃないですか。しばらくそういう日々が断続的に続きました。それがもとで体を壊したのですが、あのときの記憶がかなり強烈でしてね。なぜこんなことをやっているかわからないわけです。合理的に考えれば、通信社の共同と時事に任せておけばいいのに、なぜ真夜中までいなくてはいけないのか。万一のために新聞社やテレビ局含めてみな待機しているわけです。
しかし何もやることがない。記者クラブの窓から、富士見櫓(ふじみやぐら)の上空にかかる月を見る。お濠の向こうに丸の内や日比谷のネオンが輝いている。俗界の塵や欲望が渦巻いているように見えたものです。唯一の楽しみは張り番が終わり、車に乗って帰宅する途中、乾(いぬい)通りを経由して乾門へ向かうとき。いま乾通りは春と秋に一般公開されていますが、当時はまったく公開されていませんでした。乾門まで700メートルほど車がゆっくり進んでいくわけですが、秋には前照灯に照らされて紅葉が浮かび上がるのです。誰も見たことのない東京の風景を見ている感覚がありました。
たとえ宮内庁が公表しなくても、天皇の真の病気はガンだというのはなんとなくわかっていました。それでEQ部屋というのがつくられました。EQというのはEmperorとQueenという意味です。いつ天皇と皇后が死去してもいいように、予定稿をつくっておくんですね。ところがそこからがものすごく長かった。
侍医長や侍医の家の夜回りに行くと…
宮内庁詰めをしばらくやったあとには、侍医長や侍医の家の夜回りにも行かされるわけです。なぜ行くかと言えば、その日の天皇の体温や血圧、脈拍数、下血の有無などを聞き出すためです。これをやっていると、玉体のイメージが崩れてくる。「下血」なんて言葉を聞くと、否が応でも天皇も一人の老人にすぎないことが実感されてくる。宮内庁詰めになったときとはまた違った発見がありました。