また、1971年、アメリカのニクソン政権は、ドル・金兌換を停止し、ドル切り下げを断行し、さらに1973年には固定為替相場制から変動為替相場制に移行した。ブレトンウッズ体制の終焉である。アメリカがその貿易赤字の拡大によって、ブレトンウッズ体制に耐え切れなくなったからであるが、その貿易赤字の一因に、アメリカの石油生産量の減少による石油輸入の増加があった。
ブレトンウッズ体制の崩壊によって、自由な国際資本移動と生産の国際化が進展した。その結果、運命共同体である国民国家が経済運営の責任を果たすという「経済的ネイションフッド」は後退した。グローバリゼーションと、それに対するポピュリズムの反発という、我々が目の当たりにしている現象は、こうして生み出されたのである。
「デタント」の背景にもエネルギーの論理が
なお、1970年代の終わりには、米ソの間の緊張が緩和したが、その背景にもエネルギーの論理があった。ソ連の原油生産が増加する一方で、アメリカの原油生産が減少したため、アメリカは対ソ協力へと傾いたのである。
また、原油輸入国となったアメリカは、中東地域に深く関与せざるを得なくなった。1991年の湾岸戦争の背景には、イラクによる湾岸地域の石油支配を阻止したいというアメリカの意図があり、2003年のイラク戦争では、逆に、フセイン政権を倒して制裁を解除し、イラクからの石油供給を再開したいというアメリカの目論見もあった。
そして、このイラク戦争の失敗により、中東情勢は混乱に陥り、これに巻き込まれたアメリカは疲弊し、国内政治の混乱を引き起こした。
1970年代の終わりのソ連のエネルギー力の向上とアメリカのエネルギー力の低下は、米ソの緊張緩和をもたらした。
しかし、1970年代の石油価格の高騰は、北海油田の発見などの油田の開発を促した。さらに、1986年のドル安により、ドル収入の減少に直面したサウジアラビアは、原油価格を大幅に引き下げた。原油価格の暴落により、エネルギー輸出に依存し過ぎていたソ連は経済危機に陥り、それが冷戦の終結とソ連の崩壊につながった。
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