逆境に勝った「有名社長たち」の心に刺さる言葉 本田宗一郎や稲盛和夫など…残した言葉の数々
1936年には、感光紙部門だけを独立させた「理研感光紙株式会社」の社長に就任。2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後にリコーとなった。
悲運を嘆かずに次々と壁を突破した、市村による勇気が出る言葉がこれだ。
「人生というものは、たとえいかなる逆境・悲運に遭遇しても、希望さえ失わなければまったく消えてしまうものではない」
状況が悪いときには、それに応じた戦い方がある。自ら可能性を閉じることなく、打開策を模索し続けられるかどうかが、鍵となる。
就職活動に苦労した稲盛和夫
・「大変革期に巡り合わせたことを……」(稲盛和夫)
いつの時代も就職の悩みは尽きないが、京セラの創業者・稲盛和夫も、就職活動には苦労させられた。
大学卒業後、鹿児島から東京や大阪の企業を受けても内定には至らず、何とか決まった碍子製造会社に入社した。同期がみな辞めてしまうような労働環境だったが、稲盛はとどまり、特殊磁器ニューセラミックを担当。その経験が、27歳での京セラ創業へとつながった。
京セラが世界クラスの一流企業となった後も、稲盛の挑戦は続いた。
1985年、電気通信事業法の施行により、電気通信事業の自由化が実現すると、稲盛は参入を表明。回線をつなぐ場所さえ確保できておらず、周囲から無謀だと言われるなか、稲盛が従業員に飛ばした檄がこれである。
「百年に一度という大変革期に巡り合わせたことをたいへんな幸運と思おうではないか」
さらに、「このチャンスを大事にして、成功に向けて一丸となって燃えよう」と続けた。
その結果、2年4カ月で回線を開通させることに成功。現場のモチベーションを上げることで、異業種の壁を乗り越えた。
・「人はなにか一つのことに……」(御木本幸吉)
真珠の養殖に世界で初めて成功した真珠王・御木本幸吉。
欧米視察ではニューヨーク郊外で発明王トーマス・エジソンと会談したという逸話を持つ。手渡されたミキモトパールを見ると、エジソンは驚きを露わにした。
「私の研究所でできなかったものが2つだけあります。一つはダイヤモンド、もう一つは真珠です。あなたが動物学上は不可能とされていた真珠を発明し完成されたことは、世界の驚異です」
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