逆境に勝った「有名社長たち」の心に刺さる言葉 本田宗一郎や稲盛和夫など…残した言葉の数々

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選択と集中によって、苦境から脱した鬼塚の言葉がこれだ。

「弱肉強食の時代に生き残ろうと思うのなら、自己の特色を出して強者に対抗していくほかない」

鬼塚は「志を持った人は、土壇場に強い。困難にブチ当たっても倒れない」とも言っている。思わぬピンチに直面したときには、創業の志に立ち返ってみるのもよいだろう。

・「失敗のない人生なんておもしろくない」(本田宗一郎)

本田宗一郎が独立したのは、22歳のとき。勤務先から見込まれて、自動車修理工場の浜松支店を開業したのが、経営者人生のスタートだった。

初めこそ従業員はわずか一人だったが、宗一郎の修理の腕はピカイチで、やがて注文が殺到。工員は50人に増え、25歳になる頃には、若き成功者として高級車を乗り回し、芸者と豪遊する生活を送った。

順風満帆だったが、宗一郎には「修理するだけではなく、自動車を生産したい」という夢があった。

だが、28歳で工場を閉鎖して新会社を設立すると人生が一転。エンジンの部品であるピストンリングをうまく作ることができず、資金繰りに苦しんだ。貯金も底をついた宗一郎だったが、学校に改めて通って学んだ結果、ピストンリングの製造に成功。商品化に漕ぎ着け、息を吹き返すことになる。

大きな失敗から、大きな成功をつかんで「世界のホンダ」を築き上げた宗一郎らしい言葉がこれだ。

「失敗のない人生なんておもしろくないですね。歴史がないようなもんです」

挑戦のないところに失敗はない。であれば、失敗は挑戦の証ともいえるだろう。失敗の歴史こそが、成長のプロセスとなる。

理不尽な冷遇にあったリコー創業者

・「逆境・悲運に遭遇しても、希望さえ失わなければ……」(市村清) 

リコーの創業者・市村清は元保険外交員だった。根っからの営業マンで、営業成績は優秀そのもの。知人から発明されたばかりの理研感光紙の販売の話を持ちかけられたのも、その営業力に一目が置かれたからである。

市村は保険外交員を辞めると「理研感光紙九州総代理店」の看板を掲げて、陽画感光紙を売りまくった。それは本社に評判が届くほどで、理研から請われて感光紙部長として入社することになった。

だが、本社で市村を待っていたのは、理不尽な冷遇であった。抜擢に対するやっかみである。市村は社内の者たちが目さえも合わせてくれない状況に、一切の仕事を放棄するという大胆な手法で上層部を動かす。また対立しても臆することなく意見を述べ続けて、その存在感を認めさせた。

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