石破茂首相は、「なぜ安全保障上の懸念があるのか」と述べ、アメリカ政府に強く説明を求めるなど、日米関係に小さくない亀裂を生じさせる出来事となった。
重要なのは多くの国民が感情的に納得できるかどうか
これらの買収計画をめぐる一連の動きは、ウォール・ストリート・ジャーナルが「アメリカの製造業と安全保障を損なう経済的な自虐行為だ」と批判したように、行き過ぎた保護主義の産物といえるものであり、まさに産業政策が「政争の具」にされる事態といえるだろう。
ポピュリズムの観点から見れば、また違った風景が見えてくる。政治家が人気取りのために「実益」よりも「世情」を優先する志向の先鋭化である。
合理的に考えてどのような利益や損失があるかどうかを見極めることなどよりも、多くの国民が感情的に納得できるかどうかのほうが重要になるからだ。
これは理屈ではない。道徳心理学者のジョナサン・ハイトが提唱する道徳基盤理論が分析の助けになる。彼は『社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学』(高橋洋訳、紀伊國屋書店)で、人間の道徳心は6つの道徳基盤によって構成されていると説いた。
「ケア」「公正」「自由」「忠誠」「権威」「神聖」だ。それぞれが進化の過程で獲得された認知モジュール(脳内にある小さなスイッチのようなもの)で、さまざまな文化ごとにその内容は異なっているという。
今回の買収騒動に最も関係があるのは、「神聖」のモジュールである。もともとは病原菌などの「汚染を避ける」という適応課題によって出現したとされ、それが概念的な意味を含む「不浄の忌避」へとその範囲が拡大していったものだ。
ハイトは「〈神聖〉基盤は、悪い意味でも(汚れている、あるいは汚染しているので)、良い意味でも(神聖なものを冒瀆から守るために)、何かを『手を触れてはならないもの』として扱えるようにする」と述べている(同前)。
恐らく保守的な思想を持つアメリカ人にとって、この神聖モジュールが作用している対象がUSスチールなのではないかと推測できる。これらのモジュール=スイッチが非常に厄介なのは、思考以前の深い情動レベルの働きだからである。
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