以上のように古田会頭の時代をまとめれば、「光と影」がある。だが田中理事長には「影」しかないのではないか、そんな感想を『魔窟』は抱かせる。では田中支配という暗黒時代はいかにして生まれたのか。
運動部が大学拡大のエンジンに
「輪島より俺のほうが強かった。輪島は相撲しかできないけれど、俺は大学で偉くなる道を選んだんだ」
田中は大学3年のときに全国学生相撲選手権で優勝し、いわゆる学生横綱となった。1学年下には輪島(後に大相撲で横綱になる)がいて、彼のように大相撲の世界に入っても不思議ではない実力者であったが、田中は日大職員になった。
プロの力士にならなかったのは、背が高くなかったことなど諸説があるそうだが、森は日大OBから、田中は恩人である保健体育事務局長の奨めに従い日大に残ったとの証言を得ている。この局長は日大運動部全体に絶大な影響力をもち、同時に住吉会や系列の右翼団体とも深くつながる人物であったという。彼との出会いが田中の原点であり、彼の姿こそ、田中の原型となったに違いない。
日大は、運動部が大学拡大のエンジンとなった。中央大学であれば司法試験の合格者数など法曹界での存在感、早稲田大学であればマスコミなどへの就職者数や卒業生の活躍に相当するものが、日大では運動部の活躍であったのだ。箱根駅伝やラグビー部に力を入れる新興大学の先行モデルといえよう。
そのような大学では、運動部の関係者が幅を利かせることになる。また日大は運動部の出身者を積極的に教員や職員として採用したという。そこにおいては運動部出身者のネットワークが大学内に張り巡らされていったのは想像に難くない。
そうした学内で田中は出世街道を行った。保健体育事務局長となって運動部を握ると、田中は各学部の学部長に運動部の部長の座を与えた。すると皆、田中シンパにかわっていくのだ。
おまけに田中は相撲部の監督であるゆえに各相撲部屋からスカウト費が懐に入ってくる。ある元理事は「田中氏にはやたらカネがありました」「田中氏が理事長になる少し前でした。田中氏が相撲部屋から大金をもらっている、という苦情が学校に殺到しました」と森の取材に答えているほどだ。
また大学施設の工事業者からの裏金も取り沙汰され、日本大学医学部附属板橋病院の建て替え工事をめぐっては背任の罪に問われるなどする。
金と人事と暴力――田中は理事長というよりもフィクサーのようだ。田中が理事長に到達できたのは、古田会頭時代からの大学の体質のおかげもあっただろう。それどころか、フィクサーのような存在にまで突き抜けられたのは、相撲の道を諦めたことと無関係ではあるまい。
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