炎上会見で露呈、期待が迷走に変わった日大改革 焼け跡から再建を果たした「中興の祖」が源流に
「違法な薬物が見つかったとか、そういうことは一切ございません。なんとか学生を信じたい気持ちでいっぱいでございます」
晴れやかな理事長就任1周年会見からわずかひと月のちのことだ。この大学トップの頑なな全面否定が、日大の迷走の始まりだったといえる。林は部員の逮捕を受けた直後の8月8日、学長の酒井健夫や副学長の澤田康広を引き連れ、大学本部で緊急会見を開いた。執行部がそろって会見に臨んだ3首脳会見がそこに追い打ちをかける。
3首脳が開いた会見の席上、理事長の林は日大の初期対応について次のように自ら語った。
「酒井学長、調査をした澤田副学長は適切な対応をしたと考えております」
それが文字通りの「炎上会見」となった。日大の3首脳は騒ぎを最小限に抑えようとしたつもりかもしれない。だが現実には、彼らの甘い見立てとは真逆にことが進み、警視庁が大麻を吸った4人の部員たちを次々と立件していく。順風満帆の大学改革をアピールしてきた林たち日大執行部は狼狽え、もはや収拾がつかなくなっていった。挙句、会見後まもなく記者会見に臨んだ3首脳は仲間割れした。理事長の林一人が大学に残り、学長の酒井と澤田が大学を去る羽目になる。
日大の天皇「古田重二良」
日大帝国と呼ばれ、絶対的な権力者として君臨してきた元理事長の田中英壽が一連の事件で一敗地にまみれて大学を去ったあと、人気作家の林が火中の栗を拾い、大学の再建に取り組んだ。当初、世間は概ねそう好感を持ってきた。だが、日大という巨大組織を運営するのはたやすくはない。
日大という日本一のマンモス私大を知るうえで、田中と林のほかに忘れてならない人物がいる。かつて日大の天皇として名を馳せた古田重二良(じゅうじろう)である。もともと早稲田や慶応と並び明治の国策高等教育機関として創設された日大は、法律専門学校からスタートした。太平洋戦争が始まると他の私学と同じく、学生たちを戦地に送り出している。米軍機による日本本土の空襲がキャンパスを焼き尽くし、終戦後は廃校の危機に瀕した。
古田はそんな激動のさなかに日大トップに就く。戦火にまみれてキャンパスの大半が焼失し、ゼロから大学の再建を果たした。まさしく日大中興の祖である。
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