ミポリンと小倉さん「対極の死去」に共通する思い "突然の死"と"余命のある死"に考えさせられること
当時は「離婚の原因が音楽家・渋谷慶一郎さんとの恋ではないか」「子どもより恋を取ったのでは」などのバッシングもありましたが、10年の時を経て息子は20歳に成長。辻さんのブログを見る限り、息子はショックを受けているといい、生きているときに再会できなかった悲しさを感じているのかもしれません。
中山さんは離婚当時から何度か息子への愛情を明かしていただけに、もし「いつか会えるだろう」「大人になったら自分の意思で会いに来てくれるのではないか」と思っていたら……。家族葬が行われた12日、妹の中山忍さんは、パリから息子が駆けつけ、母と手をつなぎ寄り添ったことなどを明かし、人々の涙を誘いました。
また、中山さんの訃報を受けた渋谷さんもXに「いつか日本で飲んでる時にばったり会って『最近どうよ』とか話せたらと思っていた。それがかなわなくなったのは寂しいけど、死はいつも待ってくれない」などと悲しみをつづりました。やはり突然、命が失われたことで会えなくなってしまったという悲しさを感じさせられます。
後悔なく生きられたか
もちろん日ごろから健康に配慮し、事故や災害に備えることは大切でしょうが、それでも突然の死を完全に避けることは不可能。「エンディングノートを書いておくべきか」はさておき、日ごろから“できる限り”ではなく“できそうな範囲”くらいのことはやっておいたほうがいいのではないか。あるいは、ほんの少しでも心残りになるようなことを減らしておけたら……。中山さんの訃報はそんな実感を伴うものでした。
織田信長が好んだという幸若舞「敦盛」の一節に「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也」(人の世の 50年間は天界の時間と比べると夢幻のように儚いもの)があります。
その解釈はいくつかあるものの、“50年”を人間の寿命に置き換えて考える人が少なくありません。たとえば、まず50年間を後悔なく生き、それ以降は1日1日を充実させていく。そんなポジティブな意味でこの言葉を意識してもいいのではないでしょうか。
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