渋谷がこのようなイメージを持つようになったのは1970年代以降のこと。1973年に誕生した商業施設PARCOによる開発が大きい。

セゾングループ率いるPARCOの都市開発は、商業施設という「点」を作るだけでなく、それを結ぶ「線」としての道路、そしてその道路と商業施設が織りなす「面」としての街全体にわたる開発であった。
その中に、コンテンツとして糸井重里などを使った巧みな広告を配置し、渋谷の街全体をファッショナブルで流行に敏感な若者が集まる街へと変えていった。
「すれ違う人が美しいー渋谷ー公園通り」。そんなキャッチコピーが当時の若者の心をつかんだのである。

そうして若者が集まってきた渋谷では、1980〜1990年代に若者を中心とするさまざまな文化が生まれてくる。
最盛期には200を超えたというレコード店を背景に「渋谷系」なる音楽ジャンルが生まれたり、「109」を中心とするギャル文化も渋谷を中心に隆盛を極めていった。
また、渋谷TSUTAYAのような、渋谷を代表する店も、若者文化を担ってきた。
若者の「たむろ」は問題を引き起こし…
一方、若者が集まり、たむろすれば問題も起こってくる。
1990年代からセンター街を中心にチーマーたちが集まっていることは問題になっていたし、社会学者の宮台真司が精力的に書いていたように、そこに現れた「援交少女」の問題も顕在化してくる。
あるいはもっと身近な問題として、地べたに座ってたむろする、いわゆる「ジベタリアン」なども2000年代前後で社会問題となっていて、特に渋谷でもこれらが問題化する。
こうした状況を受けて2003年、石原都政下で新宿や渋谷といった場所を焦点とした「浄化作戦」が行われ、クリーンな街が目指されていく。
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