「暗記勉強は無意味」では全くないと断言できる訳 「学び」を重視し「勉強」を軽視する風潮に違和感
新しい教育がさまざまな現場で試みられています。しかし、それらの多くが「新しさ」という甘い蜜に引き寄せられた向こう見ずなやり方にすぎないと感じています。アクティブ・ラーニングは、かえって学力格差を拡げる懸念があることが昨今指摘され始めましたが、そんなことは現場にいる人間ならわかり切っていたことです。
杓子定規な学力的評価を捨てたうえでの振り切った改革であるのならまだ理解できるのですが、そうではなく、学力評価の価値観をそのままに、基礎力をないがしろにするような改革をしたわけですから、迷走しているとしか言いようがありません。
僕自身は、いまだ「学び」というよりは、暗記中心の「勉強」が必要だろうと感じています。なぜなら、暗記した言葉の一つひとつが、その人の思考の足掛かりになり、その結果、思考を深めることができるからです。そして、思考の足掛かりを生成AIなどに肩代わりさせることは、自分独特の生き方を手放すことになるのではないかと危惧しているからです。
勉強の価値を信じない人のなかには、「学校で習ったことなんて何も覚えていないから、意味がないよ」という人もいます。でも、そもそも大人は、自身の過去の勉強が現在どう役立っているかを認識できるほどの高い解像度で生きていないのです。
学校で『徒然草』や『平家物語』の冒頭文を音読したり暗唱したりしたことは、いまの自分に何の影響も与えていないと思うかもしれませんが、古めかしい文章を読み上げたそのときには、確かに自身の意識と身体が変化して、その変化の後に各々の人生を積み上げてきたわけです。これは案外重い事実なのですが、それを意識しながら生きている大人はほとんどいないでしょう。
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