「暗記勉強は無意味」では全くないと断言できる訳 「学び」を重視し「勉強」を軽視する風潮に違和感
ただし、困ったことに「勉強」には向き不向きがあります。いや、正確には「勉強」はすべての人に開かれており、そんなものはないはずなのですが、受験をはじめとするコンペティションの環境のなかでは、どうしても自分が他人より見劣りすると感じて、勉強なんかやってられなくなる。その意味において向き不向きがあるのも事実です。
だから、競争原理に基づく勉強は、ごく少数の上位者にとって気持ちのよいものでしかなく、他の人たちが勉強嫌いになるのは必然の帰結でしょう。
でも、日々子どもたちに勉強を教えている多くの指導者たちは、勉強ができないと下を向いている子たちにこそ、明るく前を向いて勉強してもらいたいという願いを抱いているものです。そして、暗記が得意な子たちにも、もっと身体性をともなった全身的な深い学びを得てほしいと考えています。
「学び」が発生するには
だから、さまざまな現場で「学び」が自ずと発生するような装置について知恵が絞られているのですが、その装置のまん中にはやはり人間がおり、その人の教育に対する熱意や方法論だけでなく、単に子どもに振り回される勇気や、自らの醜態をさらす覚悟なんかが、装置を稼働させる鍵を握っていたりするものなのです。
私の新著『「学び」がわからなくなったときに読む本』には学び人たちの多くの実践が綴られています。
そのエピソードのなかから勇気を得た読者の皆さんが、日々における自己の学び、他者との学びのために力を尽くし、その成果が結実することを切に願っています。
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