外国勢力が突如襲撃!「道長の甥」はどう戦ったか 九州へと渡った隆家、「刀伊の入寇」が起きる

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隆家には、次のような逸話も存在します。

ある時、花山法皇が、隆家に「いかに、そなたでも、私の門前を通ることはできまい」と仰せになりました。すると、隆家は「この隆家が通れないということがあるでしょうか」と対抗心を示したのです。2人は、通過の日取りを定め、いよいよその日となりました。

隆家は、頑丈な牛車を用意し、美しく飾り立てられた烏帽子・直衣を着用。従者は50から60人はいたようです。

一方、花山法皇方は、勇敢な荒法師や童子など70から80人を招集。彼らに大きな石や長い杖を持たせて備えていました。両方とも、本物の弓矢を用意していなかったのは、せめてもの幸いでした。

隆家は機を見て、勘解由小路から北を目指し、御門近くまで威勢よく突き進んでいきます。しかし、花山法皇方の防備がかたく、通過することはできず、退いていきました。

あっさりとした隆家の性格

退却していく隆家方を見て、花山法皇方の者たちは、どっと笑ったそうです。そのようなこともあり、後日、隆家は「やはり、王威には恐れ入った。御門の前を通ることはできず。とんだ恥をかいたもの」と笑ったとのこと。負けてもジメジメしておらず、あっさりと気持ちのよい隆家の性格がわかります。

1019年12月、隆家は帰京。刀伊を撃退した功績から、隆家を大臣や大納言にという声もありましたが、隆家は眼病が理由で内裏への出仕を控えていたため、結局何も動きはありませんでした。1037年、隆家は再度、大宰権帥に任命されます(1042年辞任)。そして、1044年に66歳で亡くなりました。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・勝倉壽一「『大鏡』道隆伝における隆家の位相」(『福島大学教育学部論集』第74号、2003)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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