外国勢力が突如襲撃!「道長の甥」はどう戦ったか 九州へと渡った隆家、「刀伊の入寇」が起きる
隆家は大宰大弐の職に就きたいという希望を、主上(三条天皇)や中宮にも奏上。天皇も隆家を気の毒に思い、また道長も「本人が強く望んでいるようなので」ということで、大宰大弐には隆家が任命されます(『栄花物語』)。
しかし、実際は、道長が隆家の大宰大弐就任を妨害していたようです。隆家とも親交があった藤原実資の日記『小右記』にそのことが記されています。
道長は、隆家と同じように目を患う三条天皇が、隆家に同情することを気に食わないと思ったのでしょうか。また、隆家が九州に下向した場合、隆家と九州の在地勢力が結び付くことに嫌悪感を示し、それを阻止しようとしたのでしょうか。
結局道長の意向は退けられ、隆家は九州に赴任します(決定は1014年11月7日)。『大鏡』によると、隆家は大宰府において善政を施したようです。九州の人々も隆家の政治を大いに喜んだとのことでした。
そんな隆家の在任中に起こったのが、前述した刀伊の入寇です。侵攻は突然のことであり、九州一帯に大きな危機がやってきました。では、隆家はその危機をどのように乗り切ったのでしょうか。
住民たちの悲劇も起きる
まず、筑後・肥前・肥後・その他九州の兵士を招集しました(『大鏡』)。大宰府内に勤めている者まで集めて、刀伊と戦わせたのでした。
これには、刀伊もなす術なく、多数の戦死者が出ました。『大鏡』には、隆家は武事には暗いものの、家柄の威光により、この困難を収めたと記されており、隆家を知謀に富んだ人とも評価しています。
隆家は、勇戦した人々の名を記し、朝廷に奏上しました。その結果、大蔵種材は壱岐守に、その子は大宰監に任じられたようです。
一方で、刀伊の入寇は、対馬や壱岐に住んでいた人々に悲劇をもたらしました。刀伊は、彼らを拉致・連行していったのです。拉致された300人の人々は、高麗軍が艦千余隻で刀伊を襲撃したときに、取り返され、無事に故国に帰ることができました。
それに感謝した隆家は高麗の使者に黄金300両を渡して帰したようです。こうした隆家の九州での活躍は、彼が優れた人物であることを示しているでしょう。
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