堤防決壊はあなたのすぐ近くでも起こりうる 治水は江戸時代から続く日本の宿命だ
川の水を一本の堤防に押し込めていく目的は、はっきりしている。川が乱れる扇状地とアシヨシが茂る不毛な湿地帯を、耕作地にすることであった。川を堤防に押し込めば、耕作地が生まれ、富を拡大できる。
徳島県の一級河川、那賀川の平面図を見てみると、中央の2本の太い線が堤防で、21世紀の現在の那賀川を表わしている。その周辺に見える幾条もの線は、かつて川が乱流していた「旧河道」である。今では地下に隠れて目で見ることはできない。
この図面は那賀川だけの特別なものではない。全国の流域でこのように堤防が築かれ、何条にも暴れる河川を、一本の堤防の中に押し込んでいく作業が行われていった。
流域開発による人口増加
この江戸時代の流域開発によって、日本の耕地は一気に増加していった。各地の米の生産高は上昇し、それに伴って日本の人口は1000万人から3000万人へと増加していったのであった。
平安から鎌倉、室町そして戦国時代にかけて、日本の耕地面積は横ばいで増加していないが、江戸になると一気に耕地面積が増加している。流域に封じられた大名たちが、堤防を築造し、河川を堤防に押し込めることで、耕地の増加を実現したことがわかる。
幕末になると、欧米列国とロシアが鎖国する日本に迫ってきた。その圧力に押され日本は開国し、富国強兵の旗印の下に、近代国家に変身しなければならなかった。水産加工から繊維産業そして重化学工業へと近代産業が発展していった。近代工業の勃興と発展には、広い土地と労働力が必要だった。
原料の輸入と製品の輸出に頼る工場は、海に近い沖積平野に建設されていった。工場に全国から人々が集められ、沖積平野で住宅地がスプロール的に増殖していった。
日本人は都市に集中して力を合わせ、日本を世界最先端の近代国家に変身させていった。一方、日本の産業経済は近代化したが、日本列島の地形は変わったわけではない。沖積平野にスプロール的に展開された都市は、極めて危険な洪水にさらされることとなった。
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