「会議資料はコピペ」平安貴族の呆れた"ぬるさ" 「庶民のための政治」をする気は全然なかった

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最初は中央から地方へと赴任していた国司(任期は4年)ですが、時代が下るごとに、実際には地方に行かなくなります。家来を代理に立てて、代わりに政務を行わせるようになったのです。これを遥任(ようにん)と呼びます。

たとえば、紫式部の父・藤原為時は越前守に任命されています。そのため、為時は娘の紫式部をはじめ、一家を連れて越前国へと移住しました。藤原道長の時代にはかろうじて、地方官はきちんと現地へ行っていたのでしょう。しかし、それ以降はほとんど赴くことはせず、京都で暮らして、現地の仕事は他人に任せるようになってしまいました。

ここでも、平安時代というものが、いかにハリボテの時代であり、中身のない時代であったかがわかると思います。

革命が起きない「ぬるい」国の最高権力者・道長

こうして、平安時代の貴族政治は大きな変化もないまま、ぬるい政治が続きました。

文化史的には、平安中期・後期とは、『源氏物語』など仮名による文学が発達し、国風文化が花開いた、特筆すべき時代だったと言われます。しかし、それは裏を返せば、中国との関係を断ったことを意味します。

漢文をはじめとした外国の文化を学ぶことを放棄した結果、仮名が生まれたのだとすれば、どうでしょうか。ただ単に、文化・社会的な進歩がなくなったとも捉えられるのです。結局、ドメスティックな視点に終始して、皆が皆、国内に関心が固定されてしまった事態とも言えます。

広い視野を持てなくなったからこそ、国風文化が生まれたのではないか。それが平安中期・後期の時代の雰囲気だった。貴族は自分たちの地位を天皇家との恋愛関係によって争うだけとなり、本来やるべき政治をやらなくなった。その溜まった膿のなかで、社会の不満として武士階級が台頭し、貴族社会を脅かすようになってくる……。それが平安時代から鎌倉時代への転換期だったのです。

先述したように、平安貴族たちは全くと言って、庶民に見向きもしませんでした。飢えや災害、病で庶民がバタバタと亡くなろうとも、我関せずというのが平安貴族です。しかし、それは庶民の側にも言えるかもしれません。

中国の場合ですと、始皇帝の秦が滅びるきっかけとなった陳勝・呉広の乱にしても、『三国志』の始まりである黄巾の乱にしても、民衆や農民による大規模な反乱が歴史を動かしてきました。ところが日本の場合には、そうした広範囲の民衆の反乱はなかなか起きません。

日本人の性格にもよりますが、それは貴族たちが知識や知性を独占し、庶民たちはそうしたものからあえて遠ざけられていたという状況があったからなのかもしれません。

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