江戸時代の老親介護「担い手は男性メイン」の理由 核家族化が進んだ江戸時代「庶民の介護」事情

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

幕府が1789年(寛政元年)に編纂を始めた『官刻孝義録』は巻1~巻50までの全50冊からなり、飛騨国以外のすべての国の事例を網羅しています(なぜ飛騨国が無いのかは不明)。登録されている善行者の総数は約8,600名に上り、そのうち約1割の者については、表彰されるまでの行為が書かれた「伝文」が付与されています。最も古い事例は1602年(慶長7年)ですが、1680年(延宝8年)頃から毎年、表彰事例が掲載されるようになります。

『官刻孝義録』で表彰対象となるのは、孝行、忠義、忠孝、貞節、兄弟睦、家内睦、一族睦、風俗宜、潔白、奇特、農業出精の11種類です。このうち「孝行」の中に親に対する子の介護行為、「忠義」の中に奉公人の主人に対する介護行為が含まれています。「伝文」が付与されたものについては、表彰に至るまでの行為が細かく記されており、実際の介護の様子がある程度分かります。ただ伝文は長いものが多く、全文掲載は難しいため、内容のまとめをご紹介します。

父を支えた二人の娘

・大和国(現在の奈良県)高市郡観音寺村に住んでいた「小ゆり」「くに」の姉妹

観音寺村に住んでいた百姓・佐兵衛には4人の娘がいました。佐兵衛は長年目を病んで、片目が見えなくなり、もう一方の目はおぼろげに見える状態。中風も重ねて発症し、農作業も不自由になりました。

4人姉妹のうち、長女の「小ゆり」は婿を取ったのですが、後に婿は家を出てしまいます。二女、三女は結婚して家を出て、末っ子の「くに」と「小ゆり」とで父・佐兵衛の暮らしを支えていました。また母も持病があり、「小ゆり」と「くに」は二人で両親の世話を続けました。

やがて佐兵衛は盲目となり、家の中での行動も思うようにいかなくなりましたが、「小ゆり」と「くに」は佐兵衛が廁(かわや〔トイレ〕)に行く際には移動の介助を行いました。必要があれば、いついかなるときでも助けないことはなかったといいます。

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事