経営陣の交代を皮切りに、ビジネスモデルを転換。ゲーム業界の革命児が、成熟市場の中で選んだ生き残りへの道。「僕らのプレステ」はどこへ行く。
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「コンピューターを使って、新しいドメイン(領域)をみんなと一緒に作っていきたいというのがわれわれの夢だった」
9月26日から4日間開催された東京ゲームショウの基調講演に登壇したプレイステーションの生みの親、久夛良木健氏は開発初期を懐かしそうに振り返った。
ゲーム業界の革命児
1994年12月3日に発売された初代プレイステーション。発売当初に掲げたのは「全てのゲームは、ここに集まる」「いくぜ、100万台」という野心的なキャッチコピーだった。
初期には「社内外から『100%失敗する』と言われた」(久夛良木氏)プレイステーションだが、発売から2年後の1996年には出荷台数1000万台を突破、任天堂の「ファミリーコンピューター」向けに提供されていた人気ゲームソフト「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」といった大人気タイトルも、やがてプレイステーションが独占した。
2000年3月に発売された「プレイステーション2」にもその流れは引き継がれ、最新技術を投入したハードウェアと人気ソフトウェアの相乗効果でゲーム業界を席巻。シリーズの累計販売台数は約6億台に達するなど、プレイステーションはまさにゲーム業界の革命児だった。
久夛良木氏は「プレイステーション3」の発売を見届けて、2007年に経営の一線から身を引いた。その後は「親はなくとも子は育つ」と語り、プレイステーションビジネスからは完全に距離を置くこととなった。
そして発売から30年を経たプレイステーションは、すっかり”大人”になった。業界やソニーグループ内における立ち位置は、大きな転換点を迎えている。
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