虎に翼のモデル「三淵嘉子」裁判官に転身した理由 わずか結婚生活4年半で夫が亡くなってしまう
何よりも大きかったのは、法曹界の先輩と交友できたことだ。「裁判官とはいかなる仕事なのか」「裁判は何のために行うのか」という根本的なところを考えるよいきっかけになったようだ。
下積み時代を送ることができた意義
司法科試験に合格したその日から「女性初の弁護士誕生」と騒がれた嘉子にとっては、このときにいったんリセットし、1人の裁判官志望者として地に足がついた下積み時代を送ることができた意義は、大きかったことだろう。
嘉子が東京地方裁判所民事部の判事補となったのは、昭和24(1949)年8月のこと。裁判官を志してから2年の月日が経過していた。
(つづく)
【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)
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