虎に翼のモデル「三淵嘉子」裁判官に転身した理由 わずか結婚生活4年半で夫が亡くなってしまう
さらにいえば、弁護士の仕事をしていて「依頼者のために白を黒といいくるめないといけない」ということがあったのも、嘉子にとっては耐えがたいものがあったようだ。本当に正しいことをはっきりさせたい。そんな思いから、嘉子は裁判官への転身を決意した。
そのときに蘇ったのが、試験場での忌々しい記憶だった。口述試験場にあった「裁判官募集」の紙には、次のように書かれていたという。
「裁判官になれるのは日本帝国の男子に限る」
当時はたとえ司法科試験に合格しても、裁判官や検察官になれるのは男性のみ。女性にはその道が閉ざされていたが、嘉子はどうしても納得できなかった。「そのときの怒りがおそらく男女差別に対する怒りの開眼であったろう」とも言っている。
男女平等が宣言された以上、女性を裁判官に採用しないはずはない――。そう考えた嘉子は昭和22(1947)年3月、裁判官採用願を司法省に提出。東京控訴院長の坂野千里との面接に臨むことになった。
裁判官に採用されずとも貴重な経験を積む
しかし、面接の結果、嘉子はすぐには裁判官にはなれなかった。まもなく新憲法のもとで最高裁判所が発足することになっていたため、面接官となった坂野からこんな説明がなされたという。
「初めて女性裁判官が任官されるのは、新しい最高裁判所の発足直後がふさわしかろう」
嘉子はのちに「裁判官採用を拒否されて不満に思う気持ちがなかったとはいえない」としながらも、このときの面接結果に感謝すらしたのは、坂野からこんなことも言われたからだった。
「弁護士の仕事と裁判官の仕事は違うから、しばらくの間、司法省の民事部で勉強しなさい」
嘉子は司法省民事部で手伝いをすることになり、その後は、最高裁判所事務局民事部や家庭局で、民事訴訟および家庭裁判所関係の法律問題、そして司法行政に関する事務に携わることができた。
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