虎に翼のモデル「三淵嘉子」裁判官に転身した理由 わずか結婚生活4年半で夫が亡くなってしまう

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彼女が靴に不自由をしていると知ると、嘉子は「あそこなら作ってくれるかもしれない」と言って、横浜元町の靴屋まで連れて行ってくれた……と、当人がのちに感謝を込めて、嘉子と思い出をつづっている。

結婚生活たった4年半で夫を亡くす

それと同時に、そんな刺激的な学びの日々が、戦争によって奪われていく様についても、満州から来た女学生は、こんなふうに書いている。「和田先生」「武藤先生」とは嘉子のことだ。

「戦争がだんだんひどくなって来て、法律の勉強の外に、防空演習、救護訓練など、さかんにやらされるようになり、和田先生となられた武藤先生も、先に立って訓練に出られ、大変な時期も御一緒に過ごしました」
(平林英美「三淵さんとの出会い」三淵嘉子さん追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』三淵嘉子さん追想文集刊行会より)

やがて、嘉子の夫・和田芳夫のもとに召集令状が届く。一度目は健康の都合で見送られるも、翌年に再び召集がかけられて戦地へ赴くことになる。

そして昭和21(1946)年5月23日、夫の芳夫は上海から引き揚げて来る途中で、持病の肋膜炎によって病死。長崎の陸軍病院で亡くなることとなった。

結婚してからまだ約4年半しか経っていなかったが、嘉子は夫と死別し、息子の芳武を育てていくことになった。

嘉子が弁護士から裁判官に転身したのは、夫の死がきっかけだったという。「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」で、嘉子自身が胸中を明かしている。

「戦後、出征していた夫が引揚途次に戦病死したので私は経済的自立を考えなければならなくなった。それまでのお嬢さん芸のような甘えた気持から真剣に生きるための職業を考えたとき、私は弁護士より裁判官になりたいと思った」

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