一風堂や山頭火が頼る「製麺企業」の波乱なドラマ 稲盛和夫さんから教えてもらった大切なこと
父は息子にこう提案した。
「もしお前がやってみたいというなら、資金を貸すから行ってみたらどうだ」
迷うはずもない。憧れの外国、夢のハワイ。夘木さんにとって、“アメリカンドリーム”へのチケットそのものになった。
ハワイに渡ったのは20歳になったばかりの1981年8月。英語が話せないどころか、就労するのにビザが必要だということすらわからない「まったくの世間知らず」(夘木さん)。語学学校に通いながら物件を探し、多くの人の助けを借りて1年後、小さな製麺工場の稼働にこぎつけた。
だが、工場の完成が近づくにつれ、夘木さんはある現実を知って不安を募らせていた。人口100万人ほどのハワイの麺需要を調べたところ、ラーメン店5店に対して、製麺会社はなんと19社にも上った。
後戻りはできない。ハワイの飲食店を片っぱしから訪ね、売り込みに駆けずり回ったという。
元来、1つずつ目標を立て、達成することに喜びを感じる性分。
「できるだけ早く工場を採算ベースに乗せようと、毎日とにかく必死でした。ツラいと思ったことは一度もありませんでした」
ラーメン店の出店が増える
1980年代後半に入ると、バブル経済に沸く日本の好景気を背景に日本企業のハワイ進出が加速。ラーメン店の出店も増え、麺の供給が期待されるようになった。
夘木さんは日本各地を頻繁に訪れ、自分の舌で確かめた味をハワイで調達できる原料で再現し、さらに保存料や人工着色料など改良剤を使わないこだわりを持って麺の試作研究に没頭した。
「どうしたらあの風味、なめらかさ、コシが出せるのか、寝ても覚めても考え続けていたら、いろんなヒントが降ってくるような現象を何度も経験しました」
事業が軌道に乗り始めたころ、想定外の事態が起きた。栃木の実家の製麺会社が倒産したのだ。
父が保証人を引き受けた友人の会社が倒産し、多額の借金を抱えることに。結婚して家を購入したばかりだった夘木さんにとって、新たな試練になった。家族の助けになりたいと、わずかな利益から毎月少しずつ日本への送金を続けた。
「退路が絶たれたという実感がわきました。この仕事を大切にしていくしかないと、スイッチが入った出来事でもありました」。実家の借金返済を助け、完済したのは、それから20年後のことだった。
夘木さんはその後29歳で、当時の年商の1.6倍に当たる130万ドルを借り入れ、ハワイに自社工場を建設。30代前半には、日本のバブル崩壊の余波を受け、負債総額が資産評価額を上回る事態に陥った。それでも夘木さんは、麺への挑戦を諦めなかった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら