フワちゃんの謝罪に見えた「無邪気」という危うさ 「多様性」のラベルが剥がれて表出したもの
こうした「世間が許しても、私は許さない。だから完膚なきまでに、たたきのめすしかないのだ!」的なムードは、とくにSNS炎上をめぐっては、よく見られる。
今回の件については、やす子さんが「許す」と発言し、フワちゃんが謝罪のうえ活動休止を決めた以上、(少なくとも対外的には)当事者間の問題は解決している。
にもかかわらず、さらなる厳罰を求める。法的で業界的な審判が下されないなら、あるいは「その処分に私は納得がいかない」なら、どれだけ私刑を加えても構わない……といった、ゆがんだ正義感がSNSにはあふれている。
でも、しょせん他人は他人だ。人は誰しも「生きてるだけで偉い」。パリオリンピックが終わった今、やす子オリンピックに出場しようではないか。一人ひとりが、それぞれ別の競技に挑み、そこにはライバルはいない。誰かに向けている敵意を、自分の向上心に切り替えられたなら、そこに「皆優勝」の未来が待っているはずだ。
その他の画像
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら