フワちゃんの謝罪に見えた「無邪気」という危うさ 「多様性」のラベルが剥がれて表出したもの
2人の名前を出したことにより、フワちゃんには「責任逃れか」といった批判が飛び、また両名は、アンチコメント風の文面を投稿前に見た「その場にいた方」だったのではないかとの疑惑が浮かんでしまう。彼らを守るための行動が、かえって矢面に立たせる結果となった点でも、もう少しやりようがあったのではないかと感じてしまう。
これまで筆者は、芸能人や企業広報など、あらゆる「炎上の謝罪文」を見てきた。その経験からすると、フワちゃんの文面を一読して、「火に油を注ぎそうだ」との感想を抱いた。しかし一方で、この文面に秘められた「無邪気さ」や「純粋さ」が、これまでフワちゃんの魅力として評価されてきたのではとも感じた。
多くのXユーザーは謝罪文にも容赦ない。「単なる言い訳だ」「内容が長すぎる」といった指摘は、筆者も同意するところだが、読むにつれて「これを言ったらどうなるか」「閲覧者にどんな印象を与えるか」よりも、伝えたい思いが優先されてしまったように思えるのだ。そうした無邪気さから、「死んでくださーい」がギャグとして成立すると、心から信じていたのではないか。
同時にSNSのような「自分の言葉による発信」に、あまりフワちゃんは向いていない様子も見えてくる。無邪気さを「多様性のアイコン」的なキャラクターとして、うまくコンテンツ化してくれる周囲がいたからこそ、ここまでの立ち位置に上り詰めたのではないだろうか。
そう考えると、そのタレント力の根幹にある「無邪気さ」が、最大の懸念材料に変わった今、たとえ復帰したとしても、従来の方向性には限界がある。
「フワちゃんらしさ」そのものに嫌悪感を持つ視聴者が増えた以上、従来の使い方を続けるのはテレビ局としてリスクが大きく、キャスティングしづらくなってしまう可能性は高いだろう。「多様性」というラベルが剥がれて、「公開暴言をした人」になった今、突拍子もない行動は魅力的には映らず、「失礼な人」と思われてしまうからだ。
SNSにあふれる“ゆがんだ正義感”
しばらくは自分を見つめ直すにしても、いずれ「身の振り方」を考えなくてはならない時が来る。おそらく復帰しても、そのまま芸能界からフェードアウトしてしまっても、フワちゃんへのバッシングが絶えることはないだろう。
もちろん全員とは言わないが、多くのXユーザーには攻撃的なところがある。少しでも「たたける要素」が見つかると、そこを針小棒大に攻撃材料とする。どのルートを選んでも、イバラ道になりがちな現状があるのだ。
くしくも、これを的確に表すようなXポストを、渦中のやす子さんが8月10日にしていた。「何も言わなかったら→許してない!最低! 許しまーす!→許すな!最低! なんでやねーーーん!!!」。
実は、今回巻き込まれた側のやす子さんも、「芸人なら真に受けず、ネタとして流せばいいのに」「なぜ謝罪を受け入れたのか」といったバッシングを受けている。
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