東電・吉田昌郎が背負った「重すぎる矛盾」 その生涯を追って見えてきたもの<後編>

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吉田氏は、福島第一、第二原発と本店勤務を繰り返しながら、順調にサラリーマン人生を歩んでいった。原子力本部の中ではいわゆるインテリ・エリートが多い技術畑(原子炉の設計や燃焼管理に関する技術研究部門)ではなく、現場に近い補修畑が長かった。大学時代に知り合った夫人と20代で結婚し、3人の息子をもうけた。

吉田は背が高くて、ちょっと猫背で、けっこう目立っていた。ヘビースモーカーで、競馬とカメラが大好きで、東電の社員としてはかなり異色でした。30半ばの本店副長時代は、昼休みをすぎても職場でスポーツ新聞を広げて、明日のレースはどうだこうだと、みんなとやってましたね。上司もあの吉田じゃしょうがないと苦笑いしていた。馬券は新橋のウィンズに誰かに買いに行かせたり、自分で大井の競馬場に行ったり。かといって、仕事をおろそかにするわけじゃない。そのへんのメリハリというのか、それはすごいつけてる奴で、仕事はしっかりするし、部下の面倒見はいいし、上司にもいいたいことは何でもいっていた。

――吉田氏と同年輩の元原子力部門の社員の吉田評

 

1995年、吉田氏は業界団体である電気事業連合会の原子力部に課長待遇で出向した。このときの上司(原子力部長)が3・11事故の際に「おい、吉田ぁ、ドライウェルベントできるんだったら、すぐやれ、早く!」と怒鳴った早瀬佑一氏(元副社長)である。

電事連では、「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故のビデオ隠しをした動燃の改革についての業界提案の取りまとめなどをした(具体的には、動燃が手がけていた新型転換炉「ふげん」の廃炉提案、文部科学省からの一部事業の引取り要請の拒否等)。

「維持規格」がなかった日本の原発

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4年間の出向から戻ると、福島第二原発の発電部長になり、その後、2002年7月に本店原子力管理部グループマネージャーとなった。

 この間、日本に「維持規格」が存在しないことが、東電の原発技術者たちを悩ませていた。米国では1971年に、運転開始後の原発に関する維持規格(補修規定)が定められ、傷などは度合いによって、補修をするかそのまま使うかを判断することができた。しかし日本では、設計・製造時の合格基準である製造規格と維持規格の区別がなく、原発の機器は常に新品の状態であることが求められていた。

1996年に、日本機械学会が746ページにわたる詳細な維持規格案を策定したが、通産省(現・経産省)は「これまで原発は絶対安全だと説明してきたのに、今さら傷があるとはいえない」と、法令化に消極的だった。

仕方がないので東電の現場では、機械学会の維持規格案に沿って補修をし、虚偽の報告をしていた。そのことをGE子会社の日系米国人が内部告発し、2002年に原発トラブル隠し事件に発展した。歴代の4社長が総退陣し、榎本聡明原子力本部長(副社長)が辞任し、大量の処分者を出した。

吉田氏も社内の事情聴取を受け、げっそりやつれるほどだったが、同時に、過去の点検記録の精査など、事態の対処に当った。慌てた経産省はすぐに原発の維持規格を定めたが、東電の原子力本部は要となる人材と信用を失った。維持規格策定に携わっていた元大学教員は、「維持規格さえあれば、問題になるような補修方法じゃなかった」と残念がる。

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