なぜ先生は学生を「怒れなく」なっているのか 教育現場を弱体化させている1つの「妄想」

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鳥羽:ああ、なるほど。今の話は、「唯言【ゆいげん】(中身のない唯【ただ】の言葉)」という言葉をご著書で使われた際の問題意識を考えるとわかりやすいですね。お題目としてわかってはいるつもりだけど、実体験として理解はしてないから、「それは悪いことだよ」「差別だよ」って言われたらすごくびっくりしてしまう。そこに抵触したってことにおののいてしまったがゆえの、子どもたちの反応なのですね。

中身のない言葉だけが独り歩きしている

舟津:拙著にうまくつなげていただいて、ありがとうございます(笑)。実は今、自分でも無自覚に喋っていたのですが、まさに「唯言」なんですよね。「差別」ないし「差別はいけない」という言葉だけが独り歩きして威力を増している。キャンセルカルチャーが力を持っている現代では、「差別をした人間は世の中から消そう」ってなっているから、「差別するってとんでもないことなんだ」と小学生ですら刷り込まれている。

だけど、人間ってもともと差別心の塊のはずなんですよ。未熟な子どもたちは、自分たちと違うものをすごくナチュラルに、安易に攻撃してしまう。だからこそ、大人が「それはダメだよ」と言って修正していくべきなのに、そのプロセスが成立しなくなっている。

鳥羽:そうですね。さらに言えば、人は息をするように差別するけれども、他者との摩擦を通して「差別はいけない」ということを体感として知ることもあると思うのです。いまは、唯言的に記憶された言葉だけにはやたら反応してしまう感じもあって、反射的に「キャンセルすればいい」となっている。それが他者と出会う機会を遠ざけています。

舟津:本当にそうですね。言葉だけは知っているから、自分たちの動物性を無視して、「これは差別だ」と言葉さえ規定すれば、途端に排除すべきだってなる。強い言葉でしか判別ができなくなっている。

鳥羽:ハラスメントなんかまさにそうですよね。学生たちの動物的な反応に対して、先生側が動物性で対応できなくなったのは、パワハラ認定されてしまう風潮が高まっているからとも思います。いまや中学生たちも「それ、何ハラ?」と言って楽しんでいる感じもあって、ハラスメント自体がミームになっている。ハラスメントという言葉が叫ばれ始めたころの切実さを、いまの若い人たちは引き継いでいません。

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