なぜ先生は学生を「怒れなく」なっているのか 教育現場を弱体化させている1つの「妄想」
鳥羽:いろんな状況がありえますから一概には言えませんが、いま教員が非常に難しい立場に立たされることがあるのは確かだと思います。
舟津:それに関連して伺いたかったことがあって。鳥羽さんの著書や発信を拝見すると、基本的には子どもや若者にかなり肩入れしているように感じます。先ほどおっしゃったように、一人ひとりに向き合うことを惜しんではいけないというお考えに基づくのかなと。
ただ、味方であると同時にちゃんと叱るし、言うことは言うんだな、とも感じられたんです。でも、今はそうした「味方だからこそ、はっきり言う」ということが、両立できると考えられていない気がしていて。
怒られ慣れていない若者たちの実態
鳥羽:その点については、私は生徒との関係性の構築のために長い時間をかけているからできるところがあります。いま教えている高3の生徒たちの半分が小6の頃からの教え子ですからね。まだ関係性が構築されていないタイミングで厳しいことを言うとやっぱりびっくりされる。例えば、ある子の発言に対して「それは差別だよ」と言うと、反省するというよりただ唖然としていたんです。本にも書かれていましたが、子どもたちが大人から怒られ慣れていないことを、私も彼らの反応から感じることがありました。
一方で、生徒たちは反発している子も含めて、本音としてはむしろ大人に導かれたいって気持ちが同時にあって。私はそれを見逃したらダメだと思っているのですが、舟津さんはそのことも本の中で触れられていて、まさに現場で教えられている方だなと感じました。ただ、いまはこっちだよ、と導いてほしい若者もいるなかで、手を緩めることしかできない指導者が増えている現実があります。手を緩めるほうが、ちゃんと向き合うより無難なんですよね。
舟津:たしかにそうですね。鳥羽さんの塾のように、小学校から高校まで時間をかけて見るという教育スタイルはよくできていると思います。
ただ、はっきり言うタイミングが早いとびっくりされる、というのがやはりイマドキだと感じます。子どもたちは「差別はいけない」ってことを、お題目としては早期から教え込まれています。同時に、とても大切なことですが、実際には誰しも無意識に差別をしてしまうものです。差別の対象も幅広いから、外国人には偏見はないけど障害者の方には偏見をもっているとか、当然ありうる。
差別心というのは必然的にこぼれるものです。そして自分から思わずこぼれたものを「あ、今のはダメだな」と反省しながら学んでいく。その過程で「それは差別だよ」と教えるのは必要な教育なんですけど、「差別はいけない」というフレーズだけを叩きこまれているがゆえに、差別をしてしまったというギャップに耐えられないのが今の子どもたちなのではないかと。