「この金で逃げてくれ!」唐十郎が頼んだ韓国詩人 アングラ演劇の旗手と韓国の大詩人との邂逅

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金芝河は1970年5月に雑誌『思想界』に「五賊」を発表、同年12月には最初の詩集『黄土』を出版したが発禁となった。「五賊」は財閥、国会議員、高級公務員、将軍、長官次官の「五賊」をパンソリ(李朝後期に生まれたとされる、伝統的な節に合わせて即興的に演じるもの)の節に合わせて痛烈に風刺した。

「五賊」を掲載した『思想界』は廃刊になり、金芝河は反共法違反で起訴、投獄された。しかし、拘禁1カ月後に肺結核が再発し保釈された。

アングラ演劇の旗手、唐十郎

一方、唐十郎は1958年に明治大学文学部演劇科に入学したが、在学中から学生劇団「実験劇場」で俳優として活動した。1963年には劇団「シチュエーションの会」を旗揚げし、翌1964年には「状況劇場」に改名した。

1967年に東京・新宿の花園神社境内にて初の紅テント公演を行い、「天井桟敷」を主宰した寺山修司(1935~1983年)とともに「アングラ演劇の旗手」とされた。

唐十郎は1969年に「状況劇場」の沖縄公演をしようとした。しかし、当時の妻であり演劇活動のパートナーであった女優、李礼仙(1942~2021年、後に李麗仙と改名)は在日韓国人であり、当時アメリカの管理下にあった沖縄へのビザが下りなかった。

唐十郎はこのことを内在的なモチーフにし、1972年にソウルと東京を結ぶ「二都物語」を書いた。唐十郎はその最初の公演をソウルでやろうと考えた。

唐によると、「二都物語」は「幽霊民族である日本人の地下水をたどり、その根源をさぐることによって現代の日本人を検証しよう」というものであった。ソウル公演の準備のために唐十郎氏は2度、訪韓した。しかし、韓国側の演劇人は当時の戒厳令下の状況から「それは無理だ」と言った。

しかし、唐十郎氏は現場に行って上演を考えようと1972年3月に2週間のビザで訪韓した。この「海峡遠征隊」に参加したのは唐十郎、不破万作(1946年~)、李礼仙、根津甚八(1947~2016年)、大久保鷹(1943年~)の5人だった。

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