管理職が「罰ゲーム」になった、もう1つの重大要因 本来不要な「リーダーシップの見えない重り」
この2つを混同してしまうことの弊害はバカにできません。よくあるのは、「管理者」として有能な人がその能力を買われて出世の階段を駆け上っていき、ある日「指導者」になった時点で突然機能しなくなってしまう、というケースです。
これには、そもそもの資質の問題もありますし、トレーニングの問題がそこに覆いかぶさります。資質もなく、トレーニングも受けていない人が、ある日突然「リーダー」を任される。それでうまくいくのは宝くじが当たるようなものでしょう。
先ほどのジョージさんのケースはこの正反対といえます。高いリーダーとしての資質を持っていながら、マネージャーとしての資質が足りないばかりに組織では上にあがれず、結果そのリーダーシップを発揮する機会に恵まれないというパターンです。
本来ならそれほど必要とされないリーダーシップがないことを負い目に感じて、適正のある人がマネージャーになるのをためらったり、重荷に感じてマネージャーの職を降りたりしてしまうケースもあります。これこそがまさに、この記事の本題である「リーダーシップの見えない重り」です。
戦後の復興期、それに続く高度経済成長期には、リーダーが明確にビジョンを示さずともやるべきことは比較的明確でした。足りないものを作り出し生活を豊かにする。先行者を追いかけ、そして追い越す。そんなゴールがはっきりしていたからです。
しかし目の前の崖を登り切って開けた高台に出た現在、リーダーはこの先どこへ向かうのか? というビジョンを明確に示す必要に迫られています。
一方で、長らくマネージャーとリーダーが混同されてきた日本では、専門的な教育が不十分なままそんな難題に直面するリーダーも少なくありません。そうしてリーダー自身がリーダーシップの重みに戸惑う中で、会社や社会が中間管理職にも必要以上にリーダーシップを求めるようになるのはある意味自然といえます。罰ゲームとまで言われる管理職の苦悩は、こうしてここに完成するわけです。
「フォロワーでありマネージャーである」はありえる
マネージャーにリーダーシップがまったく必要ないかというと、決してそういうわけではありません。係長、課長、部長、本部長、役員とトップに近づくにつれ、その仕事は次第にマネージャーの色彩を弱め、リーダーの色彩を強めていきます。
しかし、例えば係長レイヤーのマネージャーに、ビジョンを示してメンバーを導く強力なリーダーシップは多くの場合必要とされません。
リーダーとの関係でいえばフォロワーで、メンバーとの関係でいえばマネージャー、という立場はごく当たり前にありえるのです。
にもかかわらず、会社も社会も本人すらも、無意識のうちにマネージャーに必要以上のリーダーシップを求めることで、多くの人のキャリアの選択肢が大幅に狭まってしまっているのが日本の現状です。これはもはや「社会課題」だと言っても過言ではないでしょう。
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