K.Rさんは神奈川県逗子市に生まれました。父親は商船系大学を出て船乗りとして働き、母親は地方の名門校を出てテレビ局に勤めていました。
「生まれてしばらくは逗子市の借家に住んでいたのですが、1歳ごろに父方の両親が住んでいた葉山町の家に移りました。周囲には教育熱心な家庭が多かったためか、私も2年生から3年生まで日能研ジュニアの通信教育で学び、4年生になってからは中学受験のために、本格的に塾に通って勉強をしていました。住んでいた地域から同じ塾に通っていた人が何人かいたので、部活のような感じで楽しんで行っていましたね」
「勉強を強要されたわけでも、自分で特別頑張ったわけでもない」とのことですが、5年生くらいのときには偏差値が70以上あり、全国規模の模試で10番以内に入って、表紙に載ったこともあったそうです。
しかし、6年生で成績が少し下がってしまい、第1志望の栄光学園含め、麻布、浅野、聖光学院と受験した4校すべて落ちてしまいました。
「大人になってから考えてみると、私は周囲の子ども以上に子どもだったから、一般常識・社会常識が欠けていたのだと思います。甘やかされて育った、自分の意見を言えない子どもでした」
こうして公立中学校に進学したK.Rさん。受験での失敗が大きな挫折となったのかと思いきや、自分で考えて行動していないためか、悔しく感じたことはなかったそうです。
一方で小学校のときに、すでに中学レベルの勉強もしていたため、中学に入ったときの成績は100人いる学年の中でも1~2番でした。
「当時の勉強は惰性だった」とK.Rさんは語りますが、中学での勉強には「あまり苦労を感じたことはない」と話すだけあって、卒業する頃にはやや成績が落ちたものの、上位8番くらいでとどまりました。
高校受験では進学校である県立横須賀高等学校に合格し、進学します。しかし、ここから彼の成績はみるみる下がり始めます。
部活動に打ち込み勉強をしない日々
県立横須賀高等学校に進んだK.Rさんは、中学時代に所属していたブラスバンド部とは打って変わり、ラグビー部に入って部活に打ち込みます。その日々を振り返って彼は「当時は全然勉強しなかった」と語ります。
「成績はずっと下のほうで、クラスの一番下から2〜3番目という感じでした。地理と保健だけは得意で学年トップだったのですが、好きな科目しか勉強しなかったんです。最高学年までやりたいことも志望校も決まらないまま、センター試験を受けました。
点数は全然思い出せないのですが、低かったので、国立の医学部で唯一二段階選抜がなかった宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)を受けて落ちたことしか覚えていません。
親の希望もあって小学校からずっと医学部志望でした。受かるわけがないと思っていたのですが、何となく受験の世界に乗っかっている雰囲気を出すためだけに宮崎まで行ったんです。交通費も、宿代もかかるのに……。今考えても本当にひどい人間ですよ」
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