「都市と山村」を行き来する「土着の思想」の実践 競争社会的生き方とは別の生き方を育む「苗代」

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

私は、もっと別の書物から、自分なりの「土着」の思想を理解しようとしていたように思う。それはたとえば、画家のセザンヌが、フランスの詩人であり、美術批評家でもあるジョワシャン・ガスケに語ったこんな言葉である。

わたしはときどき散歩に出たり、市場へじゃがいもを売りにいく小作人の二輪馬車の後からついて行ったことがある。彼は、サント・ヴィクトワールを一度も見たことがなかった。彼らは、あっちこっち、道に沿って何が植わっているか、また、明日はどんな天気か、またサント・ヴィクトワールに冠がかかっているかどうか、などは知っている。犬猫のように、彼らは自分たちの必要にだけ応じてかぎつける。(ジョワシャン・ガスケ著、与謝野文子翻訳、高田博厚監修『セザンヌ』求龍堂)
ある種の黄色を前にして、あの人たちは自発的に、そろそろ始めなければならない刈り入れの仕草を感じとるのだ。(同上)

言葉を信じない地縁共同体への反発

私にとって、「土着」の思想とは、言葉の対極にある思想であり、生き延びるための知恵でもある。そうした考え方に私が共感できたのは、私が大田区の場末の工場で生まれて育ったことと関係している。私は、工場の職工さんたちから「お前は親父の後を継ぐんだ。手に職をつけろ。大学なんて行くとバカになる」と言われながら育った。

それは言ってみれば、言葉のない世界であり、言葉を信じない世界であった。私は、自分が生まれ育った言葉のない地縁共同体に強い反発を覚え、そのしがらみの世界から逃れることに必死だったように思う。

ときおりその頃のことを思い出すことがあるが、今なら言葉のない世界の住人たちが、その価値判断や実行力において言葉の世界に生きるものたちに劣るところはないということがよくわかる。吉本隆明が同じことを書いており、私は深くその影響を受けてきた。

次ページ「鍋やタコパ」の「個人的な体験」の延長線上に
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事