「侵攻の引き金」を引いたウクライナの"失策" 対立の根底には2つの「ロシア人像」がある

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こうした大統領の行為に対して、不満を覚えた民衆たちが反政府デモを組織。その活動がマイダン革命と呼ばれるようになり、一時は100万人規模に達するほどの激しいデモとなった。ウクライナ政府は治安部隊を出動させて鎮圧を図ろうとしたものの、民衆の怒りを抑えることはできず、多数の死傷者が出た。

2014年2月になっても騒動は収まらず、「もうどうしようもない」とばかりにヤヌコビッチは大統領としての職務を放棄し、ロシアに逃亡したのだった。これが現役大統領行方不明の顛末である。

こうした事態を受けて、ウクライナ議会はオレクサンドル・トゥルチノフを大統領代行に立てて新政権を樹立。それまでの親ロ派から一転して親欧米派の立場を採った。

このマイダン革命の成功にウクライナの全国民が拍手喝采を送った——わけではなかった。親欧米路線に抵抗を覚える国民も存在し、こうした状況がウクライナ情勢を複雑なものにしている。

「広い意味でのロシア人」だと考えるウクライナ人

ウクライナには「自分たちは広い意味ではロシア人だ」と考えている人々がいる。「ロシア人」という言葉には、狭義では現在のロシア人、広義ではベラルーシ人やウクライナ人も含んでいるというニュアンスがある。

ウクライナのロシア人たちは、位置的にはロシアに近い東部や南部に多い。東部ではドンバス地方(ドネツク州とルガンスク州)、そして南部ではクリミア半島だ(クリミアはもともとロシアの領土だったが、1954年にフルシチョフが当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管している)。この地域の人たちは日常的にロシア語を使っている。

一方で、「自分たちは決してロシア人ではない」と考える人たちもいる。こちらはウクライナ西部に多い。とくに最西部のガリツィア地方ではその意識が強い。

この地域は歴史的に見ると、オーストリア・ハンガリー帝国(一般的にはハプスブルク帝国と呼ばれる)の領土であり、第1次世界大戦の敗北によって帝国が解体された1918年以降はポーランド領となっていた。

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