「侵攻の引き金」を引いたウクライナの"失策" 対立の根底には2つの「ロシア人像」がある
ロシア領(ソ連領)になるのは第2次世界大戦後であり、また日常的にウクライナ語も使われていることもあって、ロシアに対する思い入れは皆無に等しかった。いや、それどころか、むしろ積極的に嫌っているとさえいってよいかもしれない。
これから触れるクリミア半島併合のあと、ガリツィア地方の中心都市であるリヴィウではプーチンの顔を印刷したトイレットペーパーが人気商品になったという話もあるほどだ。
このウクライナにおける東南部と西部のロシアに対するスタンスの違いは、第2次世界大戦中の対ナチス・ドイツでも浮き彫りにされる。
このときソ連兵としてナチス・ドイツと戦ったウクライナ人は約200万人。一方、ウクライナ西部の人たちはナチス・ドイツに協力してソ連軍と戦った。その数は約30万人と伝えられている。
また、東と西では信仰する宗教も異なる。ロシアに近い東部はロシア正教を信仰しているが、西部に関してはカトリックの影響が強い「ユニエイト教会」(イコン〈聖画像〉崇敬や下級聖職者の妻帯が認められるなどは正教会と同じだが、ローマ教皇の首位性と教義的にはフィオリクエ〈子からも〉を認める東方典礼カトリック教会)の信者が多い。こうした宗教の違いも対立に影を落としているのだ。
このような対立があることを踏まえたうえで、マイダン革命のその後を見てみると、東部と南部の親ロ派の人たち(広い意味でのロシア人)が親欧米政権に対し「冗談じゃない!」と反発したことも理解できる。
相次ぐウクライナからの「独立」の動き
ウクライナ共和国内における自治共和国としての地位を確保していたクリミア(1996年〜)は、ヤヌコビッチ政権崩壊後の暫定政権に対する親ロ派のデモが拡大するなどしたのち、2014年3月にはウクライナからの独立を問う住民投票を実施した。
その結果、9割もの人々が独立を支持。それだけではなく、ロシアへの編入を望むという流れが生まれた。ロシアはこれを受け入れ、クリミア共和国として編入された(国際的には認められていない)。
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