「フェルマーの最終定理」は、序章にすぎない 青木薫が「数学の大統一に挑む」を読む

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まず第一に、フレンケルは数学を諦めなかった。少年時代の彼が、初めて淡い思いを寄せた相手は量子物理学だった。しかし、たまたま家族ぐるみの付き合いのあった数学者が、量子物理学を理解したければ、まずは数学を知らなければならないと教えてくれた。それをきっかけにフレンケルは、それまではつまらないと思っていた数学に興味を持つ。そして数学のことを知れば知るほど、その魅力から逃れられなくなっていく。

立ちはだかる人種の壁

エドワード・フレンケル(Edward Frenkel)●1968年旧ソ連生まれ。父親がユダヤ人との理由でモスクワ大学の入学試験で全問正解したにもかかわらず不合格となり、やむなく石油ガス研究所(日本でいうところの工業大学)に入学、応用数学を学ぶ。一方で純粋数学の研究を続け、在学中にハーバード大学に客員教授として招かれる。その後、ラングランズ・プログラムと出合い、量子物理学にまで拡張。カリフォルニア大学バークレー校の数学教授。親日家でもある。「愛の数式」をテーマとする映画を製作・出演。『数学の大統一に挑む』の著者。

しかし、ユダヤ人を父として旧ソ連に生まれた彼には、数学者になるという夢が叶う見込みはほとんどなかった。旧ソ連に生まれたユダヤ人の数学者といえば、ポアンカレ予想に証明を与えたグリゴーリー・ペレルマンがいる。ペレルマンについては、『完全なる証明』(マーシャ・ガッセン著 拙訳 文春文庫)に詳しいが、彼は旧ソ連で発達した、特殊な早期英才教育を受けている。また、レニングラードという大都市に生まれたペレルマンは、数学のエリート教育を行う数学専門学校に進むこともできた。ソ連に生まれて数学をやろうという才能ある若者は、それらのエリート高校から、名門モスクワ大学やレニングラード大学に進むのが普通で、ペレルマンはまさにその道をたどることができたのだ。一方、地方都市に生まれ育った本書の著者フレンケルは、特殊な早期教育システムも、数学のエリート高校に学ぶこともなかった。

さらにペレルマンとフレンケルは、大学進学について決定的に異なる――まさしく運命を分けるような――経験をした。旧ソ連には隠然たるユダヤ人差別が存在し、モスクワ大学やレニングラード大学はその中でもとりわけ過酷な差別方針を採っていたのだが、ペレルマンは周囲の大人たちに守られて、その差別的制度をすり抜けることができた――彼は、自分がユダヤ人であるという現実を直視することなく、いわば目をつぶったまま差別の網をくぐり抜けたのである。それとは対照的に、われらが著者フレンケルは、モスクワ大学の歴史上もっとも差別が過酷だった時期に、力学数学部の入学試験に体当たりした。そして――全問正解したにもかかわらず――ボロボロに叩き潰されてしまう。その入試のようすが語られるくだりは、あまりのめちゃくちゃさに開いた口が塞がらないほどだ。結局、彼は工業系の大学に進んで応用数学を学ぶことになった。

普通ならば、そこで諦めるところだろう。入試での経験だけでもひどいダメージを受けてしまいそうだが、たとえその傷を乗り越えて数学を続けたとしても、大学院に進める見込みはなく、数学者としての職が得られる見込みはさらにない。ユダヤ人差別の目に見えないシステムが、幾重もの高い壁を作って、フレンケルの行く手を阻んでいたのだ。それでも彼は諦めなかった。普通の大学生として勉強する傍ら、ひそかに純粋数学の研究を続けたのである。そして、まだ学部すら卒業しないうちに、なんと、ハーバード大学の客員教授に招聘されることに……。フレンケルは、蜘蛛の糸のようなチャンスを懸命に手繰り寄せて、文字通りフェンスを乗り越え、さらには「鉄のカーテン」をすり抜けて、まんまと「体制にハッキング」したのである。

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