バンドマンから48歳で弁護士転身のロックな半生 41歳の誕生日、もうひとつの人生を問いかけた

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「高校でバンドを組んで、それから1977年のパンクムーヴメントの影響で、クラッシュに衝撃を受けた。『ロックなら社会をひっくり返せる、これが生涯の道だ!』と、音楽で生きていくことに決めたんだよ」。

大学へ進学した夏にはライブハウスに出演

社会変革を胸に、東京へ出るため早稲田大学へ進学。すぐにバンドメンバーを集め、夏にはライブハウスに出演していた。

「あるときライブハウス新宿ACBから、『1日空いてるから好きなことやってみなよ』って声をかけてもらってさ。これが自分でイベントをやるきっかけ。イベントを企画して色んなバンドを集めたら、めちゃくちゃ盛り上がったんだよね」。

「JUST A BEAT SHOW」のオムニバスレコード。メジャーデビューする前のブルーハーツやレピッシュの音源も

「続いて2回目も盛り上がっちゃったんで、1982年4月から『JUST A BEAT SHOW』というシリーズイベントを毎月やろうってことになったんだよね。1985年からは拠点を渋谷屋根裏に移し、自分のバンドも『ジャンプス』になった。その頃のシーンはぐんぐん盛り上がっていったね」。

「JUST A BEAT SHOW」には、のちに日本の音楽シーンを牽引するザ・ブルーハーツやザ・ストリート・スライダーズ、辻 仁成率いるエコーズやレピッシュ、さらにミッシェル・ガン・エレファントなど、錚々たるバンドが出演していた。 

島さんは当時の熱狂をこう振り返る。

(撮影:赤澤昂宥)

「ブルーハーツは85年結成だけど、86年に(イベントの)オムニバスアルバムを出す頃には、ライブハウスでは物凄い存在感があった。

甲本ヒロトとは同じ学年で、俺がイベントに誘って、彼らもジャンプスを見にきて、『いいね! やろうよ』って話になってさ。この頃はガンガン動員が増えていった時代。その後は資本が入ってきて、青田買いみたいにメジャーデビューするバンドも増えてね」。

周りのバンドはメジャーデビューしていくが、島さんは商業主義的なやり方をあちこちで批判していたこともあり、レーベルからは声がかからなかったという。

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