「ざま見やがれ」強気な建築家・前川國男の驚く偉業 コンペに落ちた若手が「巨匠」と呼ばれるまで

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平安神宮、明治神宮、築地本願寺など寺社の設計でも知られています。西洋建築の手法に基づきながら新しい日本建築を生み出すことを考えていた建築家ですから、このコンペが「日本趣味」を求めたのは、彼の意向によるところが大きいでしょう。

このコンペ規定には、近代建築を推進するグループからの反発もありました。応募を拒否する運動も起きています。それもあって、応募案のほとんどは「帝冠様式」と呼ばれるものになりました。

近代的な鉄筋コンクリートのビルに、日本風の瓦屋根をかぶせるスタイルです。現在の東京国立博物館本館を見ればわかるとおり、コンペで採用された渡辺仁(1887~1973)の原案もまさにそれでした。

しかしこのコンペに、「日本趣味」でも「東洋式」でもないモダニズムのデザイン案を落選覚悟の上で応募した若き建築家がいます。落選が決まった後、彼は『負ければ賊軍』という過激なタイトルの文章を雑誌に書き、「態(ざま)見やがれ!」などとコンペの審査員を挑発しました。

まさにアドルフ・ロースを思わせるようなケンカ腰。この強気な若手建築家こそ、ル・コルビュジェに弟子入りした最初の日本人、前川國男(1905~1986)です。

「日本趣味」に抵抗したモダニスト前川國男

1928年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業した前川は、その日の夜に日本を離れ、シベリア鉄道経由でパリへ渡りました。そこでル・コルビュジェに弟子入りし、2年間、無給で仕事に励みます。

1930年に帰国すると、前川はアントニン・レーモンド(1888~1976)の東京事務所に入りました。チェコ出身のレーモンドは、フランク・ロイド・ライトの弟子。

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