「ハチロク」大正から令和まで活躍したSLの記憶 花輪線や五能線での現役時代、「SL人吉」の勇姿

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もし、この1725列車に乗っていたら、SLマニアの性で機関車のすぐ近くの最前列に陣取っていたであろう……と想像しただけで身体が震えた。1時間ほどしてから保線の車に同乗して現場に向かうと、機関車は横転して海中に没し、客車の最前部の半分以上が海の中で大波に洗われていた。機関士は行方不明だという。もし私が乗っていれば行方不明は2人ということになっただろう。

五能線 事故 1972年12月2日
大波で路盤が流失し脱線した五能線の1725列車。牽引機の8620形は海中で横転している=1972年12月2日(撮影:南正時)

少し落ち着いた頃に私は現場を撮影し、後で到着した仕事先の某大手新聞社の支局員にフィルムを手渡した。残念なことに機関士は後日、機関車の下から遺体で収容されたという。

北九州の炭鉱地帯を走ったハチロク

北九州の炭鉱地区では、石炭列車は9600形が牽いていたが、通勤通学列車はハチロクが客車を牽いていた。室木線と香月線(ともに福岡県・廃線)ではハチロクが2両の客車を牽き通勤通学列車に使われていた。

映画俳優の高倉健さんが亡くなった時、健さんが疎開先の室木線鞍手駅で終戦の「玉音放送」を聞いたと「私の八月十五日の会」の録音で述べている。健さんは当時も鞍手駅から折尾の高校へ通学したり勤労奉仕に出かけたりしていたというから、ハチロクが牽く室木線の旅客列車に乗っていただろうか?

室木線 8620形
戦前の面影をとどめていた室木線(撮影:南正時)

改めて当時の室木駅でのハチロクの旅客列車の写真を見ると、戦中に健さんが乗ったと思われる列車そのもののような気がして感慨を新たにした。

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