高速列車時代の前夜「イタリア鉄道」1990年代の姿 雑多な客車列車や遅れが当たり前だったころ

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FS E444R インターシティ
ミラノ中央駅に到着した、E444R型電気機関車が牽引するインターシティ。当時の主力列車だった=1995年(撮影:橋爪智之)
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約30年の間にイタリアの鉄道は大きな変貌を遂げた。「フレッチャロッサ」や「イタロ」といった高速列車が次々と発着、ミラノとローマの間をわずか3時間足らずで結び、航空業界へ大打撃を与えたことが原因の一端となって国営アリタリア航空が消滅するなど、イタリア国内の交通網はとくにこの十数年の間に激変した。

筆者が初めて1人でヨーロッパを訪れたのは1995年。もちろん、その当時は現在の状況など微塵たりとも想像できなかった。事情により渡航できなかった何年かを除き、ほぼ毎年のように通い続け、ついには住むことになってしまったヨーロッパだが、その中でも圧倒的に訪問回数が多いのがイタリアだ。今回は1995年のイタリアの鉄道の様子を紹介したい。

都市間の主力は「インターシティ」

その当時、イタリアにはまだ最高時速300km以上の高速列車は運行されていなかった。その代わりに各都市間の移動を担っていたのは、都市間特急の「インターシティ」だ。機関車が牽引する昔ながらの客車列車で、最高時速は200km。主要都市間にはこうしたインターシティが1~2時間間隔で運行されていた。

首都ローマとイタリア最大の商業都市ミラノを結ぶ最重要幹線にも多くのインターシティが設定され、両都市間をおおむね6時間で結んでいた。現在の2倍以上の所要時間がかかったのだ。

FS インターシティ食堂車
食堂車が連結されたインターシティ=1995年(撮影:橋爪智之)
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