高速列車時代の前夜「イタリア鉄道」1990年代の姿 雑多な客車列車や遅れが当たり前だったころ
インターシティというと、今や在来線の地方都市を結ぶローカル特急というイメージとなっているが、当時は最優等種別の1つで、ミラノ―ローマ間のような幹線には食堂車を含む10両以上の長編成が運転されていた。まさに、今の最優等列車フレッチャロッサと同じ位置付けで運行されていたのだ。
大ドームで知られるミラノ中央駅のような行き止まり式のターミナル駅には、到着した特急列車をすぐに折り返し運転するために、側線に何両もの電気機関車が待機して並ぶ姿が見られた。だが、2023年の今、すべての列車は客車に運転台を設置し、機関車の付け替えが不要なプッシュプル運転となってしまった。かつてのように待機する機関車の姿が皆無であることに今さらながら気付いて、いささかショックを受けた。
最新鋭「ETR450」が古いデザインだった理由
1995年当時、そのインターシティの上位に位置したのが、イタリア初の高速列車ETR450型ペンドリーノだった。最高時速は250kmで、当時の他国の高速列車に匹敵する性能を有した。
イタリアのフィアット社(後に吸収合併され、現在はアルストム)が長年にわたって研究開発を続けた末に完成した自慢の振り子(車体傾斜)装置を搭載して、曲線区間での高速運転を同時に実現し、ミラノ―ローマ間を4時間半で結んでいた。インターシティでは6時間もかかっていたのだから、当時としては大幅な時間短縮で、イタリア期待の星であった。
もっとも、1990年代の最新鋭の高速列車という割に0系新幹線のような丸みを帯びたデザインは、最先端のデザインを生み出すイタリアの車両にしてはいささか古さを感じさせた。実は開発期間が長くかかってしまい、1970年代にデザインしたこの車体はデビュー当時にはすっかり時代遅れになっていた、という裏話があったのだ。その後間もなくデビューすることになる次世代型のETR460型では、イタリアを代表する工業デザイナーのジゥジアーロが内外装を手掛け、ようやく最高水準のデザインを手にすることになる。
夜行列車も今とは全く異なるものだった。当時は毎日、何往復もの夜行列車がイタリアの南北間に運行され、ターミナル駅に並んだ列車が次々と発車していくシーンは圧巻だった。
ただ、1990年代の夜行列車というと、一部には寝台車やクシェット(簡易寝台車)を連ねた立派な夜行急行があったものの、編成の大半が座席車という、少々グレードの低い列車が多かった。地域格差が激しいイタリア、南部の貧困層で高額な寝台車に乗る人は少なく、皆座席車で夜を明かして南北間を移動していたため、座席車の数が多く必要だったのだ。
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