「加賀屋」50歳の元若女将が選んだ"第2の人生" 震災からの復興への道、仕事術について聞く
揺れが襲った瞬間何が起こったのか、宿泊客の帰路をどう確保したのか。何が必要で、どんな準備が足りていなかったのか。
震災からわずか1カ月後、あわら温泉の旅館を会場に、和倉の女将さんら3人を招いた懇談会が開かれたのだ。生々しく鮮明な震災の体験談が語られ、次の災害への備えや対応策が伝えられた。そして、あわらの女将さんに向け、こんなエールが送られた。
「新幹線開業を機にあわらを盛り上げて、能登や北陸全体の元気を引っ張ってほしい」
和倉とあわら、2つの温泉地で「女将さん」をつないだのはいうまでもなく、絵里香女将の存在だ。
絵里香さんは1973年に福岡市で生まれ育った。日本エアシステム(JAS航空)に入社し、統合先の日本航空を含め、客室乗務員を8年務めた。加賀屋を経営する小田家の長男、與之彦さんと結婚したのは31歳のとき。以来、旅館業に携わるようになった。
「嫁いだときは本当に無知でした。20代のようなキラキラした感覚で結婚して、旅館のお仕事がどういうものかわからず、何も考えていませんでした。だから迷わず来られたのだと思います」
加賀屋が「日本一」と評価されるのは、300人を超える従業員とともに、230室、1日最大1000人が宿泊する大規模旅館を運営するノウハウと、”加賀屋イズム”とも称される徹底した顧客対応力にある。
客室係や料理人など自立した「個」が、それぞれの持ち場で持てる限りの裁量と、精一杯の感性で客を迎える。それを引き出すのは、指揮者とも呼べる女将の采配だ。
ある日突然加賀屋の女将に
加賀屋に勤めるようになると、義母の女将・小田真弓さんにぴったりと張り付くように毎日を過ごした。おもてなしの所作、立ち居振る舞い、その「心」までを自分の中に取り込もうと必死だった。
「最初は自分に自信がなくて。それでも、皆さんから期待されるような女将になりたいと思っていました。ときには従業員に寄り添うことを重視したり、指揮棒を振らなきゃと頑張ってみたり。周りの顔を見ながら過ごしていた時期が長かったような気がします」
嫁いで10年が経った2014年、與之彦さんが代表取締役社長に就任した。ある日、「少し風邪気味だから」と1日休みをとった女将が、次の日も、その次の日も現れない。代替わりを公にするような儀式もなく、ある日突然に託された館だった。戸惑い、ふと振り返ると、客室係は心が定まらず、現場は混乱していた。
「誰かが決めないとこうなるんだ――」不思議と怖さや重圧感はなかったという。内側から湧いてきたのは、「わたしがやる」という意志のようなものだった。もう、嫁という“お飾り”ではいられない。自分の中に変化が起きるのに、時間はかからなかった。
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