原発事故のさなかも南相馬市に残ったグループホーム、市内では高齢者施設の不足が深刻化

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原発事故のさなかも南相馬市に残ったグループホーム、市内では高齢者施設の不足が深刻化

認知症の高齢者が暮らすグループホーム田園(福島県南相馬市=写真)は、福島第一原子力発電所から半径30キロメートルを少し超えた場所にある。原発が立て続けに爆発した3月12日以降、南相馬市では放射能による健康被害を恐れた住民の脱出が相次ぎ、人口は震災前の約7万1000人から一時は1万人強にまで減少。市内では病院や薬局も次々と閉鎖した。
 
 そうした状況にもかかわらず、田園では唯野真己・代表取締役管理者の判断により、「高齢者には過酷すぎる」と判断して避難しないことを選択。現定員の18人を超えて、津波で家を流された人や、避難指示区域(現・警戒区域)に自宅があるために帰れない人など4人の高齢者も新たに受け入れている。


お年寄りに語りかける唯野氏(左)。避難せずに踏みとどまる決断をした

放射能漏れの程度など事故の実態が見えなかった当時、介護施設の判断は避難するかどうかで大きく揺れた。特別養護老人ホームや認知症グループホームなど、第一原発から半径30キロメートル圏近辺内外にある介護施設のほぼすべてが避難を決断した中で、「私たちが同じ判断をしたら高齢者の方々はバラバラになってしまう。家族との連絡もままならなくなるおそれもある」と唯野氏は判断。すべての高齢者の家族から、避難せずに現在の場所でケアし続けることについて承諾を取り付けた。

もちろん苦難にも見舞われた。22人いた職員の中で残った8人で高齢者18人を介護しなければならなくなり、職員は3日に1度の割合での夜勤を余儀なくされた。協力医療機関だった診療所が一時閉鎖されたうえ、近隣の薬局も閉じた。
 
 ただ、幸いなことに、唯野氏が理事を務めていた相馬市の老人保健施設の経営者(医師)が、処方箋の発行や医薬品の確保に尽力してくれたことで窮地を乗り切った。その後、協力医療機関も再開し、4月11日には同じ南相馬市鹿島区で唯一の病院である鹿島厚生病院が外来診療を開始した。

「入居高齢者の生活は震災前とまったく変わりなく、この間も健康を維持してきた」と唯野氏は語る。というのも、顔なじみの職員が寄り添い続けたことに加えて、高齢者にとって体に負担が重い移動を回避したためだ。

原発事故直後こそ物資の不足に苦しんだものの、その後の3月15日前後から福島県認知症グループホーム協議会を皮切りに、新潟県や佐賀県の個人などから支援物資が届いた。4月には滋賀県の長浜社会福祉協議会から食材や衛生用品など13トントラック1台分の物資を受け取った。

「最後まで踏みとどまったのは正解だった」と唯野氏。かつて精神科病院に勤務し、その後も特養ホームや老健施設の施設長を務めたことから、唯野氏はいざというときのネットワークを多方面に張り巡らせている。


高齢者は震災前と変わらず、落ち着いた生活を送っている

現在の悩みは、マンパワーの制約から高齢者の新たな受け入れができないことだ。県からは緊急受け入れの要請もあるが、対応できていないという。

激減した南相馬市の人口は3月末以降、再び回復基調に転じている。介護が必要な高齢者も、避難先での生活に耐えきれずに戻ってきている。にもかかわらず、原発から20~30キロメートル圏内の南相馬市原町区(緊急時避難準備区域)では、依然としてグループホームを含む高齢者施設の再開が認められていない。30キロメートル圏外では、田園をはじめとしてどの施設もいっぱいだ。今のルールでは、介護を受けることができずにさまよう高齢者が再び増加することになりかねない。
(岡田 広行 =東洋経済オンライン)

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