「この木なんの木」と深い縁、ポール与那嶺の半生 ポール与那嶺さんにインタビュー(前編)
そこで私が信託会社と話をして、最終的には持ち主が売却をやめて、日立が維持管理費を出しながら、公園を残すという結果になりました。
相手は当初、日立という社名も知らなければ、この木が日本の人にとって親しみのある、意味のある木だということも知らず、驚いていました。でも私の友人でもある信託会社の理事長が協力し、理事会に日立の概要や思いを熱く説明してくださって実現することができたのです。
幸運にも、いまだに日立が維持費を出し続けて公園が守られています。ホノルル市民にとっても本当にいい結果になりました。
ハワイのビジネスでは信頼関係、島国的なパーソナルリレーションシップはとても重要ですね。ヒューマンネットワークは、リスク管理にもつながると思います。このことで、当時(日立製作所の)社長だった古川(一夫)さんに「グッジョブ」と褒めていただいたことは、思い出に残っています。
―――その古川社長から、その後日立でコンサル会社を立ち上げて社長になってくれないかと誘われたのですね。
今もよく覚えていますが、古川社長がハワイまでわざわざ会いにきましてね、「日立の改革ができなければ日本の改革もできない」とおっしゃって。それまで自分のキャリアプランの中にはありませんでしたが、2006年から4年契約で日立コンサルティングの社長を務めました。
祖父が沖縄からハワイに渡る
―――ポールさんご自身は東京で生まれ育っていますが、お祖父様が戦前に沖縄からハワイ移民としてマウイで過ごし、そこからお父様のウォーリーさん(与那嶺要さん)はアメリカンフットボール初の日系人選手になり、そして戦後初の外国人プロ野球選手として読売巨人軍や中日ドラゴンズの選手・監督で大活躍されていますね。
祖父は沖縄県の中城(なかぐすく)から那覇、横浜を経由して、船でホノルル、ラハイナへと16歳の時に渡ってきています。この年で全然知り合いがいないところに1人で行くというのは、いまだにちょっと想像ができませんよね。ゼロスタートから最終的には子供7人を育てました。
今回、残念なことにラハイナで火事があり、祖父がいた村もその被害に遭いました。朝から晩までさとうきび畑で仕事をして家族を養っていくのは大変だったと思いますが、アメリカンドリーム的に家も購入して、子供もそれなりにいい学校に行けるようになりました。
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