「この木なんの木」と深い縁、ポール与那嶺の半生 ポール与那嶺さんにインタビュー(前編)
彼はカリスマ性が非常に強い。彼自身はアメリカ国籍だけど、日本人ということに対するプライドが非常にありました。
「アメリカ人社会の中で日本人として頑張っているんだ。君も自分のルーツに必ず誇りを持って、アメリカと日本の架け橋になりながらお客さんを手伝いなさい」と。
それを聞いて非常に感激しましてね。何度かお会いするうちに最終的にプライスウォーターを断念して、(アメリカの監査法人大手)ピート・マーウィック・ミッチェル(現・KPMG)に入社することになったんです。
自分で言うのもなんですが、会計士の卵として、結構活躍していたのですが、入社して1年くらい経ったある日、竹中さんに呼ばれて、「実は君を採用したのは親父さんが有名だったから」と聞かされて。でも「君は仕事を上手にこなせるから結果的にいい採用だった」と言われました。
そこで5年働いた後、別の企業からの誘いで3倍くらいの報酬が得られるところに転職しました。彼はそのとき何も言いませんでしたが、10年後に『本音は残ってもらいたかったんだ』と言って。彼は非常にディープな人間なんですよね。
ライフイベントに必ずいる竹中さん
―――その後のキャリアにおいても、常に竹中さんの導きがあったのでしょうか。
1992年に私は起業し、会社の業績自体はよかったのですが、日本企業との仕事はあまりなく、物足りなく感じていたちょうどそんなときに、竹中さんからピート・マーウィックに戻ってこないかと言われて戻ることにしたのです。
彼もすでに独立して企業買収のコンサル会社を作っていましたけれど、ピート・マーウィックをリードしていて、日本のお客様に対するサービス内容に対して非常に違和感があった。私に戻って立て直してほしいというのです。
日本関連企業を担当し、南カリフォルニアからハワイ州の会計の仕事や全米のコンサルまでやるようになり、日本に駐在してからはアジアパシフィックも含め、全部で13カ国にコンサル会社をつくりました。
原点につねに竹中さんがいて、彼に恩を感じながらピート・マーウィックに長年いましたが、その後地元のハワイに戻りたいと思い、ホノルル市の顧問として市の再生プロジェクトを2年間担当するようになりました。
やりがいはありましたが子供が3人いて、報酬面でやはり魅力的じゃなかった。民間に戻らなくちゃいけないというときに、日立コンサルティングの社長の話があり、そして日本アイ・ビー・エムにつながる。
鍵になるライフイベントには必ず竹中さんがいます。借りを返さないといけない。ほかにも竹中チルドレンがたくさんいましてね、みんな竹中さんへの恩を忘れていない。世の中悪くないなと思いますよ。
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